メルマガ

 

 

ジョン・コンスタブル(John Constable) http://seiki2211.shop/1423-2/ ‎

絵画(かいが)とは?
絵画とは「絵」のことで、キャンバスや紙などに描かれるものです。どちらかというと『絵画』とよばれるものは芸術・美術として見られることが多いですね。西洋絵画とは、ヨーロッパを中心に描かれた作品をさしますが、その多くは油絵です。今もそうですが、19世紀もフランスのパリが芸術の中心地でした。産業革命や戦争など大きく世界が変化していく中で、画家もまた時代の大きな波の中でたくさんの絵画の手法を試していました。
絵画と聞くと、あまり興味がないとつまらないと思ってしまうこともあると思います。私も子供の頃は興味がなくて、美術館へ行ってもつまらないだけでした。でもそれは、その絵画を描いた画家のことを何も知らないからだったんですよね。
画家の名前も何も知らない状態で、絵画を見てもあまりよくわかりません。どんな画家だったのかを少しでも知っていると、その絵画もまた違って見えてきますし、『名画』と呼ばれる絵画の名前を知り写真で少し知っているだけでも、本物を見たときにじっくりいろんな部分を見て楽しむことができるようになります。ピカソやゴッホの名前を知っていても、どんな人生を送ったのかを知ってから見ると、絵画を見るのがもっと楽しくなるんです!
絵画だけでは、つまらないかもしれません。でも、その絵画を描いた人がどんな人だったのかを知ると楽しくなっていくのです。

j01 j02

ジョン・コンスタブル(John Constable)
自然主義
1776年6月11日‐1837年3月31日
19世紀前半のイギリスを代表する風景画家としてコンスタブルは有名な画家です。コンスタブルが風景画を描いたことにより、風景画は絵画としての地位を確立することができたのです。コンスタブルという人の名前を聞いたことがない人もいるでしょう。19世紀まで、評価されることがなかった風景画を確立したイギリスの風景画家、コンスタブルとは一体どんな人だったのでしょうか。コンスタブルがかいた絵で有名な作品はどういったものがあるのか、見てみましょう。
[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る
コンスタブルのプロフィール
1776年イギリスのイースト・バーゴルトという町の裕福家の子供としてコンスタブルはうまれました。
コンスタブルが画家を目指すようになったのは20歳のころからで、ロンドンに行ったときに一人の風景画家に出会ったのがきっかけでした。23歳のときには美術学校に入学し、画家としてデビューしたのは26歳のころでした。コンスタブルは30歳からうまれ故郷の周辺の風景を描きはじめます。
しかし、コンスタブルの絵画は母国イギリスではほとんど評価されませんでした。それでも風景画を描き続けていたコンスタブルは、1824年に「干草車」をパリのサロンに展示されました。コンスタブルの絵画はパリでは大絶賛されました。1829年、53歳でようやく長年希望しつづけていたロイヤル・アカデミーの会員になりました。イギリスであまり評価されることのなかったコンスタブルは1837年61歳でこの世を去りました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
コンスタブルの絵画の特徴
コンスタブルが生きていた時代、風景画はあまり重要視されていませんでした。この当時に多く描かれていたのは宗教画や人物画で、風景はその後ろの背景に少しだけ描く程度だったのです。
また風景画を描くようになっても、多くの画家たちは歴史的建物や名所などを中心に描き、コンスタブルのような森や木、川の風景画を描いた画家はいなかったのです。コンスタブルはうまれ故郷の周りを中心にイギリスの田舎の風景を描きつづけました。
特にコンスタブルは風景の中に流れている雲が特徴です。決して大きく空が描かれているわけではありませんが、風の流れによって形が変わっていく雲をうまく表現しています。
しかし、その雲は実際に描いているときにあったのではなく、普段から雲のスケッチをしていた中から、その絵に一番似合う雲を選んで描いていたといいます。
コンスタブルの有名な絵画
19世紀のイギリスの田舎を中心に、穏やかに流れる人々の生活や風景の一瞬を柔らかなタッチで描いていたコンスタブルの有名な作品はほとんどが風景画です。その中でも後の画家たちに影響を与えたものを紹介しましょう。
干草車

イギリスではあまり評価されなかったこの作品は、フランスで大絶賛されます。干草車とそれを引く牛、そして農夫の様子というなんでもないような当時のイギリスの田舎を描いたものです。
この風景画をフランスで見たドラクロワは大絶賛し、影響をうけたのです。後の印象派たちが大きく影響を受けるきっかけになった作品でもあります。ナショナル・ギャラリーにあります。
ソールズベリー大聖堂

コンスタブルは、このソールズベリー大聖堂を題材にした絵画を何点か残しています。どれもがソールズベリー大聖堂が中心ではなく、景色の中の一つとして描かれています。
ソールズベリー大聖堂を描いた作品はロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館やワシントンの国立絵画館などにあります。
19世紀の芸術史の中で「風景画」を芸術として高めるきっかけとなった画家がこのコンスタブルです。当たり前の風景を当たり前のように描くことにこだわった画家だったのです。これらの考えは19世紀後半の印象派に受け継がれていったのです。
コンスタブルと関係がある画家:ターナー、モネ、ドラクロワ

画派別で探す?
【写実主義】
19世紀半ばにうまれ、物事を抽象化、理想化せずに客観的にありのままを描くことを目的としました。また、歴史画や空想画を描くことが画家の仕事ではなく、現実に見えているものを忠実に描き記録することが大切だと考える画派です。
写実主義の画家 >> クールベ
【象徴主義】
19世紀後半に写実主義に反発してうまれた画派です。神秘的なものや思想、魂、夢の世界や精神世界を絵画にしていくことを目的としていました。写実主義とは反対に「目に見えなくてもただ感じるものを信じる」ことで絵画を制作していました。
象徴主義の画家 >> モロー、クリムト
【ロマン主義】
18世紀末から19世紀はじめにかけてドイツ、イギリス、フランスを中心としてヨーロッパ全体に広がりました。自由な大胆な構図でドラマチックに表現するのが特徴です。
ロマン主義の画家 >> ターナー、ドラクロワ、ジェリコー、ゴヤ
【ラファエル前派】
1848年に作られた画派で、フランスのアカデミーに通っていた画家たちによって作られました。イタリアルネサンスの時期の巨匠ラファエロが登場する前のルネサンス芸術を理想としています。中世の伝説や聖書を題材にし、細かい描写が特徴です。
ラファエル前派の画家 >> ミレイ、ハント、ロセッティ、ウォーターハウス
【印象派】
19世紀後半にフランスでうまれた絵画の技法で、伝統的な絵画と違い、明るく豊富な色が特徴です。画家たちは外に出て、光や空気など目に見えないものを感じ取って印象として絵画にしました。風景絵画が多いのが特徴です。
印象派の画家 >> マネ、ドガ、セザンヌ、モネ、ルノワール、ピサロ
【新印象派】
明るい色彩を必要とした画家たちが、混ぜた色を塗るのではなく原色(純色)を点で塗ると、それが目の中で混ざり合って見えるという「視覚混合」の手法を科学的に実践した画家たちのことをいいます。印象派と同じく風景絵画が多いです。
新印象派の画家 >> スーラ
【後期印象派】
印象派の後に活躍し、のちの画家に影響を与えた画家たちを総称して後期印象派といいます。しかし、印象派の流れではなく、あくまでも「印象派の後」の画家という意味でつかわれています。
後期印象派の画家 >> ゴーギャン、ロートレック、セザンヌ
【自然主義】
人物をメインに描かれ、風景画はあまり重視されなかった時代にあえて、風景をメインにして絵画を制作した画家たちを自然主義と呼んでいます。産業革命により、自然が徐々になくなり、自然主義は注目されるようになりました。
自然主義の画家 >> コンスタブル
【バルビゾン派】
自然主義をベースにした風景画を描いた画家たちをバルビゾン派と呼んでいますが、名前の由来は、パリの郊外のバルビゾン村を拠点にして風景画を描いた画家が多く、村の名前にちなんでつけられました。
バルビゾン派の画家 >> ミレー、コロー
【新古典主義】
18世紀前半に発見されたポンペイ遺跡をきっかけに古代ギリシャやローマ美術の復興・再評価しようという運動からうまれました。18世紀半ばから19世紀はじめにかけての画派ですが、18世紀は博愛主義、悲劇的なものがテーマでしたが19世紀になると英雄や威圧的な絵画が多くなりました。
新古典主義の画家 >> ダヴィッド
【キュビスム】
セザンヌの影響を受けてピカソとブラックの2人の画家が20世紀はじめに行なった絵画の技法です。キュビスムは、一つの視点からの遠近法を使わずに複数の視点からの絵画を描きました。2人の画家がキュビスムの手法で描いていた期間は短いのですが、その後の画家たちに大きな影響を与えました。
キュビスムの画家 >> ピカソ
【その他】
その他の画家 >> ルソー
——————————————————————————————-
ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-Francois Millet)
写実主義 バルビゾン派
1814年10月4日‐1875年1月20日
『農民画家』として、農民の生活風景を描き続けた画家として有名なミレーの名前を聞いたことがある人、作品を教科書などで見たことがある人も多いでしょう。少しさびしそうで、暗い色が印象的な絵が多いのがミレーの絵ですよね。農民の姿とその情景を描きつづけたミレーの絵画は、ミレーの生きてきた人生をよくあらわしています。ミレーという画家は一体どんな人だったのでしょうか。有名な作品を数多く残しているミレーについて勉強してみましょう。

ミレーのプロフィール
1814年フランスノルマンディー地方の農村にミレーはうまれました。海の近くの村でしたが、崖が多く漁業には向いておらず農業が中心の村でした。
ミレーの家は裕福ではありませんでしたが家には本が多く、ミレーはたくさんの本を読んでいました。ミレーは18歳までうまれ故郷で父の農作業の手伝いをしていました。
本格的に絵画の勉強をはじめたのは19歳で、シャルブールという町の画家のもとで絵の修行をはじめます。
絵画の才能があったミレーは22歳でパリの国立美術学校のアトリエに入門しました。しかし、パリになじめなかったミレーは、1839年24歳で美術学校を中退してしまいます。この2年間の学生生活の中でミレーの心の支えとなったのはルーブル美術館に行くことでした。ここで、昔の巨匠の絵画を見て学んでいたのです。
1840年にはサロンに入選したのですが、それ以降の3年間は落選し続けました。1841年に結婚した妻も病気がちで1844年になくなってしまったのです。
ミレーはショックで一度故郷に戻り、そこでカトリーヌと出会います。カトリーヌと再婚したいとミレーは考えていたのですが、二人の仲はみとめられませんでした。そのためにミレーとカトリーヌはかけおち同然に再びパリに出たのです。
パリでの生活もやはり苦しいものでした。ミレーは生活のために描きたくもない肖像画を描いて、どうにか生活していたのです。そんなミレーを支えていたのがカトリーヌだったのです。
ようやくミレーが世間に認められるようになったのは、1848年の無監査で開催されたサロンに出品した『小麦をふるう人』が絶賛され、政府が買い取った初めての作品となりました。
しかし、世間はミレーを裸体画ばかり描く画家と噂し、屈辱に感じたミレーは農民の中に生活しながら絵画を描こうと決心します。そして、家族でバルビゾンへと引っ越したのです。
バルビゾンでのミレーの生活は、午前中は畑を耕し、その後絵を描いていました。農業をしつつ、次々と農民画を描いていきました。40代になってもミレーの生活はまだまだ安定していませんでした。農民の生活の苦しい状況をリアルに表現したため、敬遠されてしまっていたのです。
ミレーの評価が高くなったのはフランスではなく、アメリカでした。アメリカでミレーの絵画は絶賛され、ミレーは46歳でようやく貧困から抜け出せたのです。ミレーは1875年、長年住んだバルビゾンで家族に看取られながらこの世を去りました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ミレーの絵画の特徴
多くのバルビゾン派と呼ばれる画家たちは風景をメインとし、人物も風景の一部として描いていました。しかし、ミレーは逆で人物をメインとして風景は細かく描きこむことをあまりしなかったのです。
また、ミレーは農民画を描くとき、逆光になっているものが多くありますよね。正面から光が当たっていません。これは人物をより立体的に表現する効果があるのです。人物を立体的にそして強調するために背景があまり描かれていないのが、特徴的です。
ミレーの有名な絵画
フランスよりもアメリカで高く評価されたミレーは、アメリカから日本へも紹介されました。農業が主要だった日本人にとってミレーの絵画は親しみのあるものでした。そんなミレーのぜひ知っておいてもらいたい作品を紹介しましょう。
種撒く人

ミレーがバルビゾンに移住して制作した最初の絵画です。背景が簡略化され、手前の人物が強調されています。この題材は、キリスト教でイエスを「種撒く人」として表現したことを根拠にしています。実は『種撒く人』は2つあるのです。1つはボストン美術館にあり、もう1つは山梨県立美術館にあります。構図もほとんど同じなのですが、絵の具の塗り方が微妙に違っています。

ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-Francois Millet) http://seiki2211.shop/1427-2/ m01 m02 m03

ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet) http://seiki2211.shop/1431-2/ ‎

ジャン=バティスト・カミーユ・コロー(Jean-baptiste Camille Corot) http://seiki2211.shop/1429-2/ ‎ c01 c02
 

写実主義 バルビゾン派
1796年7月26日‐1875年2月22日
フランスでの風景画の地位を確立させ、のちの印象派の画家たちにも大きな影響を与えたコローは、風景画家として早くから有名になっていました。他の画家仲間の誰からも信頼された優しいコローの性格は、絵画にまでその優しさが伝わってくるような明るく、やわらかな色やふでづかいを感じとることができます。名前は知っているけれどどんな絵をかいていたのかはよく知らない、名前も作品もよく知らない、という人もここで『コロー親父』の作品を見て覚えてくださいね。

 

コローのプロフィール
1796年にパリの裕福な織物商人の子供としてコローは生まれました。両親はコローが仕事をつぐことを望んでいましたが、コローは子供のころから画家になりたいと考えていました。親に反対され続けていましたが、26歳のときにやっと父親から画家になることを認められました。
当時古典的風景画家として有名だったミシャロンのもとで、自然をしっかりと観察してそのままに表現する方法を学んだのです。
またコローは1825年~1843年の間に3回イタリアに旅行しています。イタリア絵画を見たコローは、そこで明るい色の使い方や光の取り入れ方の影響を受けて、その後のコローの絵画にも取り入れられています。
コローは1840年ころからサロンでも入選し、政府がコローの絵画を購入するようになりました。それがきっかけでコローの絵画は売れはじめました。パリ万博の美術展でも非常に評価が高く、画家としての地位をかためていきました。サロンでの審査員も行うほどの有名な画家となったのです。
そんなコローは晩年、貧しい画家やモデルたちに援助をして『コロー親父』と親しまれていたのです。1875年にパリでなくなりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
コローの絵画の特徴
コローは写実主義や自然主義と呼ばれ、自然の風景を明るい色彩と光を描きいれることでよりリアルに見せていました。コローは後の印象派のモネやルノワールの絵画に、大きな影響を与えています。最後の写実主義の風景画家であり、最初の印象派の風景画家であるともいわれているほど、コローの絵画は印象派におおきな影響を残しています。
コローの有名な絵画
生前から画家として認められていたコローは数多くの絵画を残しています。日本の各地の美術館でもコローの絵画を見ることができますので、機会があればぜひ一度コローの絵画を見てくださいね。
モルトフォンテーヌの思い出
モルトフォンテーヌの思い出 – コロー
サロンに出展された作品の中で、コローのこの作品が最も人気をあつめました。この絵画はサロンでの展示が終了後、皇帝ナポレオン3世が買い取った作品です。現在もコローの風景画の代表作として知られています。銀色のような灰色のような色が全体にあり、かすみのようにも見えます。ルーブル美術館にあります。
真珠の女
真珠の女 – コロー
風景画を多く描いていたコローですが、めずらしく肖像画を描いています。この絵画を制作したときのコローはリウマチで身体が思うように動かず、写生旅行にいくこともできませんでした。そんな中で描いたこの作品は、風景画とは違ってりんかくがはっきりしています。また、構図はモナリザを意識しているんですよ。コロー自身、この絵画をとても気に入っていました。ルーブル美術館にあります。
コローは後の印象派たちの絵画の技法に大きな影響を与えています。モネやルノワールたちは外にでて、風景の一瞬ごとを描いていた方法はコローの方法を参考にしているのです。今もコローの絵画は多くの人に人気があります。

ギュスターヴ・クールベ(Gustave Courbet) http://seiki2211.shop/1431-2/ ‎
c01 c02 (1)
 

写実主義
1819年6月10日‐1877年12月31日
写実主義の代表画家として有名なクールベは、現実のありのままを絵画にしたいと願い、それを実行した人でした。そして、世界で初めて絵画の個展を開いた画家としても知られています。「生きた絵画を制作すること」を目的として絵を描き続けたクールベとはどのような画家だったのでしょうか。クールベの絵画をパッと見ただけだと、なんだか難しそうな絵にも思えてきます。ですが、クールベがどんな思いでその絵をかいていたのかを考えると彼の人柄がわかってくるような気になります。

 

クールベのプロフィール
1819年、フランスの小さな町であるオルナンに裕福な農家の子供としてうまれました。
クールベは14歳から絵を描きはじめ、1840年21歳でパリに引っ越しました。クールベの両親は法律家になるためにパリに出したのですが、画家になりたかったクールベはすぐに美術学校に入り、本格的に画家を目指したのです。
1844年の25歳でサロンに出品した自画像が入選し、これが画家デビューとなりました。しかし、サロンに入選したのにも関わらず、クールベの作品はなかなか評判になりませんでした。
クールベが画家として認められるようになったのは、4年後の1848年のことでした。ようやく世間に認められるようになったころ、自分のうまれ故郷を大切に思いながら、クールベは政府の考えに反発するようになっていきます。クールベは自分の主張を絵画で表現したために、再び批評されてしまいます。
1855年のパリの万国博覧会のとき、クールベは展示を断られてしまいます。展示を断られたクールベは、万国博覧会のすぐ近くで「クールベ個展」を開いたのです。当時の画家たちはグループで展示会を開くことはあっても、個展を開くことはありませんでした。
このクールベが開いた個展は世界初といわれています。そして、この個展のときに「リアリズム」という言葉を宣伝に使ったことがきっかけでクールベは写実主義の先駆者と位置づけられるようになったのです。
これ以降、写実的な絵画を多く描くようになったクールベですが、社会主義運動にも参加するようになりました。これは保守的で伝統的な価値観に対する反発からです。1870年には反乱に参加したとしてつかまってしまいます。その後はスイスに亡命して、1877年にスイスでこの世を去りました。
亡命後のクールベは、再びフランスに帰りたいと願っていましたが、フランスに戻れませんでした。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
クールベの絵画の特徴
これまでの作品に登場する人や物を美化する描き方や、神話や歴史上のできごとを絵画にすることを嫌っていたクールベは、現実にあるものを描くことにこだわり続けました。美しいものは美しく、みにくいものはみにくいままに描き続けたのです。しかし、絵画の手法に関しては伝統的な手法を利用している絵画もあります。
クールベが革命的な画家だといわれている理由は、絵画の大きさにもあります。当時、巨大な絵画を制作する場合は、歴史や神話を描いた作品に限られていました。それをクールベのうまれ故郷の葬儀の様子を描いたり、自分のアトリエの様子を描いたりしました。これは当時の人々にとっては衝撃的なことでもありました。
クールベの有名な絵画
当時の美術界では斬新な方法をとっていたクールベの絵画は、現在では評価されていることでもあります。そんなクールベの代表的な絵画を紹介しましょう。
オルナンの埋葬
オルナンの埋葬 – クールベ
高さ3.1m幅6.7mもある巨大なこの絵画に描かれている人物たちは、60人近くいて、ほぼ等身大です。そして、クールベの故郷であるオルナンに実際にいた人々がモデルとなっています。人々の表情は美化されることなく、現実をありのままに描いているのです。
この作品を発表したとき、世間は大騒ぎしました。大きな絵画は歴史的なできごとか神話に限るという暗黙の了解があったのです。それを田舎の日常の一部を描いたために、クールベは非難されてしまったのです。この絵画はオルセー美術館にあります。
画家のアトリエ
画家のアトリエ – クールベ
画家のアトリエ:私の芸術生活の7年にわたる一側面を規定する現実的寓意画
この絵画はパリの万国博覧会中に開かれた、クールベの個展で展示されていた作品です。写実主義と呼ばれているクールベですが、この作品に描かれている人物たちは象徴的なのです。ここに登場している人物にはナポレオンや農夫などさまざまな階級の人が登場しているのです。
そして、クールベは友人の手紙に「私の主張を認め、私の理念を支え、私の活動を指示してくれている人全員を描いた」と書いています。オルセー美術館にあります。
写実主義のリーダーといわれたクールベは、自分を写実主義といわれるのがあまり好きではなかったようです。個展を開いたときのパンフレットに、クールベのこんな言葉が残っています。
「時代の風俗、思想、その諸相を私自身の目を通して記録し、画家としてだけではなく1人の人間として、生きた絵画を制作することが目的である」

 

ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau) http://seiki2211.shop/1433-2/
m01 (1) m02 (1)
 

象徴主義
1826年4月6日‐1898年4月18日
象徴主義は、印象派と同じ時期に発展してきました。その代表として知られているのがモローという画家です。象徴主義自体は、19世紀の後半から実践されるようになりましたから、モローは象徴主義の先がけともいえます。聖書や神話を題材にした作品が多いので、何も知らずにモローの作品を見ると、私たちにはわかりにくいかもしれません。ただ、とても綺麗な絵ということはわかりますよね。一生をかけて、歴史的なものを題材にした絵をかき続けたモローとは、どのような人物だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

モローのプロフィール
1826年、建築家の父と音楽家の母の子供としてパリにうまれました。芸術家の両親のもとでモローは8歳からデッサンを描くようになり、早くから絵画の才能をみせました。20歳で国立美術学校に入学しますが3年で退学し、ロマン派の画家のもとで修行をしていました。ドラクロワからも影響をうけています。
1852年にはサロンに『ピエタ』を出品し入選します。1857年にはイタリア留学し、イタリアの巨匠たちの模写をしています。そして同時に留学中に、イタリアでドガに出会います。
モローが画家として有名になったのは1864年にサロンに出品した『オイディプスとスフィンクス』という絵画です。この作品は、まだ考えが保守的だったサロンで賛否両論となりました。
1865年、1866年も続けてサロンに出品し、この頃からモローは画家として有名になっていったのです。1866年にサロンに出品した『オルフェルス(オルフェルスの首を抱くトラキアの娘)』は国家が買い取るほどにまでなったのです。
パリ万博にも絵画を出品したモローですが、1869年にサロンに出品した作品は、かなり批判されてしまい、それにショックを受けたモローはサロンへ絵画を出品しなくなり、1880年以降は完全に出品をやめてしまいました。
サロンから遠ざかっても、モローは画廊やパリ万博では個展や特別展示など注目され続けていました。
晩年は、自分の美術館を作るために自宅を改築し、また美術学校の教授をし、自分の絵画や技法を後世に伝えることを中心に活動したのです。
モローは1898年にパリでなくなりました。死後、モローの作品とアトリエは遺言どおりに国家に寄付され、モローが住んでいた自宅は美術館として現在も使われています。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
モローの絵画の特徴
印象派がこれまでの絵画の技法とは全く違うことをしていた時代に、モローはサロンやアカデミーの考え方に忠実な技法で絵画を制作し続けました。題材も聖書やギリシャ・ローマの伝説が多く、神秘的な世界を描きつづけました。
モローの作品は、絵画でありながらとても文学的だともいわれています。
モローの有名な絵画
生前にアトリエに残っていたのは油絵が約800点、水彩画が575点、デッサンが約7000点と膨大な数を残しています。しかし、モローが公表していた絵画はそう多くありません。
オルフェルス(オルフェルスの首を抱くトラキアの娘)
オルフェルス(オルフェルスの首を抱くトラキアの娘) – モロー
神話を中心に描きつづけたモローの代表作品です。「女性が首を持っているシーン」と聞くと、残酷にも思えてしまいますよね。しかし、モローのこの作品はそのような感じは全くありません。神秘的な雰囲気がただよっているんです。女性が持っている首のデッサンはルーブル美術館にあるミケランジェロの石膏像がモデルになっています。オルセー美術館にあります。
出現
出現 – モロー
モローはサロメ(神話に出てくる女性)を題材にした作品を多く描いています。この絵画は同じ構図でタイトルも同じなのですが、油絵と水彩画の2種類があります。独創的なこの構図の作品は、油絵の『出現』がギュスターヴ・モロー美術館、水彩画がルーブル美術館にあります。
19世紀後半のパリの絵画の流れから見ると、モローの作品は時代遅れにみえていたかもしれません。しかし、モローは一生を通して歴史画の復興に取り組みつづけた画家でもありました。
モローの遺言のおかげで、モローの作品は世界中に散らばることなく、一ヶ所に集められています。歴史画でもありますが、日本でもファンが多い画家の一人です。

 

グスタフ・クリムト(Gustav Klimt) http://seiki2211.shop/1435-2/
k01_s k02
 

象徴主義
1862年7月14日‐1918年2月6日
華やかで優雅な中にも「けだるさ」をうまく表現しているクリムトは、今も人気がある画家のひとりです。装飾家としても有名だったクリムトは、描いた絵画にも装飾の技法がとりこまれているのです。19世紀に活やくした画家の中でも、クリムトの作品は少し変わっているので、気になりますよね。まだ、クリムトの作品を見たことがないという人も、ここで彼がどんな絵をかいたのか知ってください。そんなクリムトの描く世界はどのようなものだったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

クリムトのプロフィール
1862年、芸術の都であったオーストリアのウィーンで彫刻師の息子としてクリムトはうまれました。10代のころに弟のエルンストとともに工芸美術学校に入学し、さまざまな美術養育をうけます。クリムトの才能は当時からすばらしく、17歳でオーストリア皇帝の銀行式の祝祭行列の計画にも参加しています。
また、工芸美術学校で知り合ったフランツ・マッチュやクリムトの弟と3人で、学校卒業後に工房を設立しています。彼らは世間にすぐに認められ、いくつもの装飾の仕事を引き受けました。美術史美術館の装飾や劇場の装飾など大きな仕事もしていました。しかし、伝統的なウィーン美術をこなしながらもクリムトは芸術の自由に憧れていました。
クリムトは30歳ごろから進歩的な芸術家たちと知り合ったことがきっかけで、印象派や象徴主義の作品を多くみるようになりました。これがきっかけでクリムトは、これまでのウィーン美術が保守的だったことに反発するようになりました。
そんな時、1894年、実力がある装飾家・画家としてすでに有名だったクリムトにある仕事が入りました。オーストリア政府から、大学の天井画の製作を依頼されたのです。クリムトはこれまでとは違う作品を作り上げました。それが『哲学』をテーマとした絵画だったのですが、とても非難されてしまいました。
その翌年に製作した『医学』と『法学』も同様に、ウィーンの若者に良くないとして非難されました。この仕事は1905年まで続いたのですが、激しく非難されたことでクリムトは仕事を放棄してしまいました。
この非難がある中で、クリムトを中心として1897年に「ウィーン分離派」を結成したのです。このような事件があっても、クリムトの人気はおとろえることはありませんでした。特に女性の肖像画家として人気があったのです。クリムトの絵画は、女性を実物以上に美しく見せる描き方だったためといわれています。
その後、分離派も脱退したクリムトは、邸宅の設計や装飾なども行いました。晩年、風景画を多く描いたクリムトは1918年にこの世をさりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
クリムトの絵画の特徴
クリムトは彼が生きた時代ではかなり斬新な絵画を残しています。女性を好んで描いていますが、それらの多くは、優雅な中にもけだるさを残した女性特有の表情をしています。
女性
クリムトはとにかく女性を多く描いています。かなりの女性好きの画家としても有名なんですよ。よく観察し、女性を美しく描いていることもあり、女性からの支持は絶大なものでした。
金ぱく
浮世絵の影響もあり、クリムトは絵画の中に金ぱくを使用している時期があります。これは「黄金の時代」とも呼ばれていて、金ぱくがクリムトの絵画をいっそう華やかな雰囲気にしています。
がくぶち
装飾家でもあったクリムトは、ときどき絵画の周りのがくぶちも制作していました。がくぶちとそれに飾られた絵でひとつの「絵画」とのクリムトの考えがわかります。
クリムトの有名な絵画
ユディトⅠ
ユディトⅠ – クリムト
神秘的な表情をしている女性と服、そして背景には金地が使われている作品で、クリムトの代表作のひとつでもあります。背景の木は古代のレリーフをもとにして描かれています。目的を成し遂げた女性の恍惚とした表情が印象的ですね。華やかさの中に不気味さのある絵画です。ウィーンにあるオーストリア美術館にあります。
哲学・医学・法学
この絵画は残念ながら現在は残っていません。あまりに非難を浴び、1945年に焼却されてしまったのです。現在では特に「医学」は評価が高く、クリムトの色彩センスを見ることができたといいます。
接吻
接吻 – クリムト
この作品もクリムトの代表的な作品です。この作品は展示されてすぐにオーストリア政府が買い上げたことでも有名です。クリムトの華麗な装飾への思いが、この絵画の中に込められています。金ぱくが使われ、花は文様化された中に二人の人物が強調されています。ウィーンのオーストリア美術館にあります。
クリムトの作品は、彼の装飾へのこだわりもよくわかります。金、銀、宝石を見事に描き、モザイク装飾をこよなく愛していました。エキゾチックな象徴性と豪華な美しさが女性の表情とともにますます魅力的にみせているのです。

 

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(Joseph Mallord William Turner) http://seiki2211.shop/1437-2/ t01 t02

 

ロマン主義
1775年4月23日‐1851年12月19日
18世紀の終わりから19世紀にかけてのイギリスの代表的画家がターナーです。風景画の代表である「印象派」が誕生したのは19世紀後半ですから、それよりも前に風景を絵にしていたターナーは、最初の風景画家といえるでしょう。若くして成功したターナーは、生きている間にとてもたくさんの作品を残しています。後のモネやルノワールたち印象派の画家たちにも影きょうを与えたという、ターナーはどのような風景画を描いていたのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ターナーのプロフィール
1775年にロンドンの理髪店の子供としてうまれたターナーは幼い頃から絵の才能がありました。父親も絵の上手なターナーが自慢で、よく店に飾っていたといいます。ターナーは子供の頃から身近にあったテムズ川が好きで、このことが水を多く描いたきっかけでもあったのでしょう。
美術の教育を特に受けていなかったターナーですが、14歳でロイヤルアカデミー・スクールズに入学しました。24歳でロイヤル・アカデミーの準会員になり、27歳という若さで正会員になっています。
若いときからターナーはよく旅をして、各地の風景をスケッチしていました。早くから注目されていたターナーは最初、写実的な風景を描いていました。
そんなターナーの画風が大きく変わったのは、44歳のときのイタリア旅行でした。イタリアの明るい絵画を見てから、ターナーの描く作品は、写実的にものを描くのではなく、光や風、大気を描くようになったのです。ターナーの絵画は後期になればなるほど線がはっきりせず、あいまいにもなっていきました。
1851年、テムズ川が見える自宅で息をひきとりました。ターナーは300点近くの油絵と2万点近くの水彩画を残していましたが、そのほとんどをイギリスに寄付したのです。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ターナーの絵画の特徴
風や大気を描いていたターナーの作品は、線がはっきりせずあいまいに見えます。あいまいにも関わらず、ターナーが描く自然は力強く、圧倒的な存在感を感じることができるのです。大気や風の動きを表現するために、円やだ円の構図を好んで描いています。また、光を表現するために、色は白を多く使い明るさを出しているのも特徴的です。
ターナーの有名な絵画
一生の間に2万点以上の絵画を制作したターナーですが、きちんと本人が管理していなかったために、ひどく傷んでいるものも数多くあります。今も保存され、ターナーの代表作を紹介しましょう。
戦艦テメレール号
戦艦テメレール号 – ターナー
ターナーがテムズ川を定期船にのっているときに、スクラップされる前の戦艦を見たのが題材になっています。それを見たターナーは急いで数点のスケッチを描き、翌年この作品を完成させました。ロイヤル・アカデミー展に出品されたこの絵画は絶賛されています。この当時のターナーの絵はまだ船の形がわかりますよね。ロンドンのナショナル・ギャラリーにあります。
ノラム城、日の出
ノラム城、日の出 – ターナー
ターナーが晩年に描いた作品で、彼の死後にこの絵画は発見されました。城や崖が朝もやの中に建っているのが描かれているのですが、ぼんやりしていてほとんど見えません。水彩画のように描かれていますが油絵です。抽象的にも見えるこの絵画は、完成しているのか未完成なのか専門家たちを悩ませました。ロンドンのテイト・ギャラリーにあります。
徹底した秘密主義だったターナーは、人間関係や絵画の手法に関しても周囲にあまり語りませんでした。しかし、彼が残した絵画はのちの印象派たちにも影響を与えます。

 

フェルナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(Ferdinand Victor Eugene Delacroix) http://seiki2211.shop/1439-2/ ‎
d01 d02 d03

 

 

ロマン主義
1798年4月26日‐1863年8月13日
ロマン主義画家の代表として知られているドラクロワの絵画は、ドラマチックでありながら情熱的な絵画が多いのが特徴です。「ドラクロワ」という名前だけを聞くと、なんだか強そうな怖そうなイメージがありませんか?私だけでしょうか…?絵の色は少し暗い感じがしますが、そこに描かれている人物や状況はまるでドラマのワンシーンのようです。そんな絵を描きつづけた、ドラクロワとはどんな人物だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ドラクロワのプロフィール
1798年、フランスのシャラントン=サン=モーリスという町に外交官の子供としてドラクロワはうまれました。父はシャルル・ドラクロワとされてきましたが、実はドラクロワの本当の父親は外務大臣であった人物だという説もあります。
ドラクロワは3歳でボルドー地方に家族で引っ越し、そこで音楽と文学の才能をみせはじめます。そんなドラクロワが絵画に興味を示したのは1805年に再びパリに戻ってからです。いとこが住んでいたノルマンディー地方でみた絵画にとても感動して、スケッチ画を描くようになったのです。
そして1816年にドラクロワは国立美術学校に入学しました。ここで新古典主義の画法を学びました。デッサンや彫刻の写生など、伝統的なことをドラクロワは学んだのです。
1818年、にはジェリコーの絵画に出会い、ロマン主義の絵を描くようになりました。1822年にはロマン主義の手法で描いた絵画『ダンテの小舟』をサロンに出品し、成功をおさめます。
そしてドラクロワは、1824年には『キオス島の虐殺』を発表します。当時まだ古典主義が中心の時代であったため、賛否両論をまきおこしたのです。しかし、この絵画は国家が買い取りました。この絵画をきっかけに、ロマン主義の運動が活発になっていったのです。
ドラクロワはロマン主義運動の中心的な画家だと世間では見られるようになりましたが、本人はそう呼ばれるのを嫌っていました。1830年頃からのドラクロワは、世間にあまり出なくなり、作品の制作に没頭するようになりました。
1831年には『民衆を導く自由の女神』を発表し、1832年にはモロッコやスペイン、アルジェ(北アフリカ)へ旅行にいっています。この旅行でドラクロワは、オリエンタルなものや豊かな色彩に圧倒され、膨大なメモやスケッチを残してきました。この体験は絵画にも反映されています。
1840年代以降は、政府から依頼された大聖堂や宮殿の図書室の装飾画の制作がメインになっていきました。ドラクロワが50代になるころには有名な画家になっていましたが、体調がすぐれなくなっていました。体調のよい期間には頼まれていた装飾画を完成させ、1863年にパリでなくなりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ドラクロワの絵画の特徴
ドラクロワに描かれている人物たちは写実的であるのですが、題材はとてもドラマチックなものが多いのが特徴です。また、恐怖や苦悩など精神的に極限の状態になっている人間の様子をよく描いています。そのため、時々人の動きがおおげさに見えるときもあるのです。
また、ドラクロワは色彩の研究にも熱心でした。科学者の色彩による論文を読み、原色と補色を隣り合うように色を塗って目立たせています。たとえば、原色が赤ならば補色は緑、原色が黄色ならば紫といったものです。有名な絵画にもこれらの色の組み合わせがつかわれています。
ドラクロワの有名な絵画
ドラクロワは、非常に多くの作品を残している画家です。油絵が853点、パステル画が1525点、デッサンが6629点もあり、それ以外にも彫刻やスケッチブックが多く残っています。数多くのドラクロワの作品の中でも有名な作品を紹介しましょう。
キオス島の虐殺
キオス島の虐殺 – ドラクロワ
この作品をきっかけにして、ロマン主義が活発になっていきました。実際にあったできごとをテーマにして制作されています。ドラクロワは、目撃者に様子を聞き、オリエンタルな服をスケッチし、何度も秀作を描きました。テーマに対し賛否両論がおこったのですが、フランス政府が高額で買い取っています。ルーブル美術館にあります。
民衆を導く自由の女神
民衆を導く自由の女神 – ドラクロワ
この絵画は非常に有名ですね。ドラクロワが生きていたこの時代は、フランスで7月革命がおこっているのです。ドラクロワ自身は参加はしていませんでしたが、「国家のために絵を描く」くらいはしたほうがよいと考え、制作しました。フランス国旗がこの作品をいっそう引き立てています。ルーブル美術館にあります。
アルジェの女たち
アルジェの女たち – ドラクロワ
モロッコや北アフリカを旅行したときに描いたスケッチをもとにして描かれた作品です。オリエンタルな雰囲気に加えて、原色と補色の組み合わせを効果的につかっています。モロッコで体験した光と色の組み合わせが美しい絵画です。ルーブル美術館にあります。
人の精神的極限状態を多く描いていたドラクロワでしたが、ドラクロワ自身は教養があり、物腰がやわらかな素晴らしい人物であったといわれています。しかし、絵画では激しい気性が出ています。そんなドラクロワを周囲の人は「花束の下に巧妙に隠された噴火口だ」といっていました。
ドラクロワと関係がある画家:ジェリコー

 

テオドール・ジェリコー(Theodore Gericault) http://seiki2211.shop/1441-2/
j01 j02

 

ロマン主義
1791年9月26日‐1824年1月26日
19世紀前半に競走馬や兵士の絵画を多く描いたジェリコーは、19世紀後半のモネやルノワールのような華やかな絵画ではなく、古典的な手法で絵を描いた画家として知られています。斬新な新しさや華やかさはありませんが、こまかくていねいにかかれたジェリコーの絵画は、現代でも人々に愛されています。特に馬の絵を多く残したジェリコーは、やはり馬が好きな人だったのでしょうか。学校ではあまりジェリコーの絵について勉強することはないかもしれません。ここで、ジェリコーという画家について少しでも覚えていってくださいね。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ジェリコーのプロフィール
18世紀末の1791年、北フランスのルーアンの裕福な家の子供としてジェリコーはうまれ、5歳に家族でパリに移住しています。10代のころから画家になることを目指していたジェリコーは、何人かの画家の師のもとで絵画の勉強をしますが、満足することができずにルーブル美術館でルーベンスなどの昔の巨匠と呼ばれる画家を師として、絵画から学び続けました。
21歳のころにはサロンに入選していますが、このときも馬がモチーフになった作品を出品しています。その後、イタリアに渡り、イタリアの巨匠たちの人物の描き方を学び、馬以外の絵画を描きました。その手法を取り入れた作品は、実際にあった事件をもとにして描いたものですが、政治的な面で批判されてしまいます。
それがイヤになったジェリコーはその作品をもってイギリスに渡り、イギリスで好評価をえました。1820年から1822年までイギリスに滞在し、好きだった馬の絵画を制作します。
その後、フランスに戻ったジェリコーは精神障害者をモデルにした絵画の連絡を発表しました。1923年、ジェリコーは自分でも乗馬をしていたときに2度落馬し、それがもとで1924年に32歳でこの世を去りました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ジェリコーの絵画の特徴
ジェリコーは、古典主義を基本にした作品が多いのですが、彼自身は宗教画や神話を描いた作品は好みませんでした。現実社会を描くことにこだわっていたのです。人間の本質をみつめ、人物や動物の一瞬の動きを写実的に表現していったのです。
その一方で、馬が走っている作品は、実際の馬の走り方とは違う描き方をしています。それは、実物の描写よりも、馬の躍動感を表現することを優先したためです。ジェリコーの絵画の作品の一部には、印象派の手法も取り入れられています。
ジェリコーの有名な絵画
32歳でこの世を去っているジェリコーは作品数もあまり多くはありません。その中でも有名な絵画を紹介しましょう。
メデューズ号の筏(いかだ)
メデューズ号の筏(いかだ) – ジェリコー
この作品は、実際にあった船の事故を元に描かれています。イタリアからの帰国後の作品で、新たな人物の描き方に挑戦しています。ジェリコーはこの作品を制作するにあたり、事故の生存者の話を聞き、病人の肌の様子をスケッチもしてリアリティーを追求したのです。ルーブル美術館にあります。
エプソンの競馬
エプソンの競馬 – ジェリコー
ジェリコーがイギリスにいたときに描かれた作品です。馬の疾走する躍動感を表しているのですが、馬の足の動きは実際とは違うんですよ。これは、ジェリコーが間違えたので社なく、わざとそのように描いているのです。正しい馬の足の動きでは、馬の速さや躍動感をあらわすことができないとジェリコーが考えたためといわれています。この作品もルーブル美術館にあります。
馬を特に好んで描いたジェリコーは、走っていない馬の絵画も残しています。馬の気品の高さ、毛並みの美しさを見事に表現しています。ジェリコーの作品は、ドラクロワにも大きな影響を与えています。

 

フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(Francisco Jose de Goya y Lucientes) http://seiki2211.shop/1443-2/
g01 g02 g03 g04_s

 

 

 

ロマン主義
1746年3月30日‐1828年4月16日
ゴヤの絵画と聞くと、なんだか怖い雰囲気の絵画を思い浮かべる人と、綺麗な肖像画を思い浮かべる人の両方がいるでしょう。ぜんぜん違う2種類の雰囲気の絵のイメージがあるゴヤですが、どちらもゴヤらしい作品といえるのです。ただ、かかれた時代が違います。このゴヤはスペインの宮廷画家として活躍し、スペイン最大の画家と賞賛されているほどの有名な人です。怖い絵と綺麗な絵をかきわけた画家、ゴヤとは一体どんな画家だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ゴヤのプロフィール
1746年、スペイン北東部にあるフエンデトードスという村の農家にうまれました。一家はゴヤが14歳のときにサラゴーサに引っ越し、そこで絵画の勉強をはじめます。
サラゴーサでバイユーという画家に知り合ったゴヤは、彼がマドリードに行くのをきっかけについていきました。ゴヤはマドリードのバイユーの工房で働くことになったのです。この工房でゴヤはタピスリー(タペストリー)の下絵を描いていました。
工房で働きながら、有名な画家になることを目指していたゴヤは1770年にイタリアへ留学し、絵画コンクールで賞をとっています。イタリア留学後、ゴヤは再びタピスリーの下絵を描いていました。1774年には、はじめて王室のタピスリーの下絵をかいています。ゴヤがタピスリーの下絵を描いていた期間は長く、1792年頃までこの仕事にかかわっていました。1789年には、念願の宮廷画家になり、10年後には首席宮廷画家の地位にまでのぼりつめました。
宮廷画家としてのゴヤは肖像画をメインに描いていました。その一方で個人的に注文を受けた絵画では、魔女などの恐ろしい雰囲気の絵画も多く残しています。画家として順調に歩んでいた中、ゴヤはあるとき原因不明の病気にかかり、それがきっかけで聴覚を失ってしまったのです。聴覚を失ったことでゴヤの画風はガラリと変化していきました。当時のスペインの情勢も不安定で、フランスに占領され争いがおこっていました。ゴヤの絵画は暗い色が増えていったのです。
スペインの王が変わり、美術に興味のなかった国王はゴヤを首席宮廷画家の地位のままにしておきました。1815年以降のゴヤは宮廷画家でありながら、実質的には引退して親しい友達のために絵を描いていました。
この時期にゴヤは一軒の家を購入し、有名な『黒い絵』のシリーズを描きはじめました。1826年に宮廷画家を引退し、ボルドーで晩年を過ごします。そして1900年82歳でこの世を去ったのです。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ゴヤの絵画の特徴
タピスリーを描いていた初期や肖像画家としての時期のゴヤは、比較的明るい色で穏やかな雰囲気の絵画を制作していました。肖像画は写実的でありながら、人物の内面までしっかりと表現しています。ゴヤはかなりの観察力の持ち主で、人の心理を描くのが上手ながかでした。
しかし、病気で聴覚を失ってからは暗い色を使うようになり、人間の内面のみにくさや苦悩をも表現するようになったのです。これらの暗い絵画は、あまりに恐ろしくゴヤが生きている間には公表されませんでした。
また、ゴヤは版画家としても活躍しています。版画だけで300点近く制作しているんですよ。白と黒の線だけで戦争を題材にした作品を多く残しています。
ゴヤの有名な絵画
宮廷画家として明るく穏やかな情景を描いていたゴヤ、そして人の苦しみや内面を表現した暗い絵画を制作したゴヤ、どちらかの絵画だけではゴヤを知ることはできません。有名なゴヤの絵画を紹介しましょう。
着衣のマハ・裸のマハ
着衣のマハ – ゴヤ
裸のマハ – ゴヤ
同じポーズ、同じ構図で描かれたこの2つの作品は女性が服を着ている作品と着ていない作品の2つがあります。着衣のゴヤの方が魅力的に見えるといわれています。
この作品は、ゴヤが宮廷画家だった1800~1805年ごろにある貴族の依頼でこっそり制作した絵画です。着衣のマハと裸のマハを見比べてみると、色の使い方も違うのです。着衣のマハの方が、唇の赤やほお紅のピンクが強調されて、色鮮やかなのです。マドリードのプラド美術館にあります。
マドリード、1808年5月3日
マドリード、1808年5月3日 – ゴヤ
スペインがフランスのナポレオンによって占領されたときの様子を描いた作品です。恐怖や反抗、絶望、そして悲惨さを見事に表現している作品です。この時代に描かれたゴヤの絵画の多くは『マドリード、1808年5月3日』と同じように暗い色のものが多いのです。マドリードのプラド美術館にあります。
わが子を食うサトゥルヌス
わが子を食うサトゥルヌス – ゴヤ
ゴヤの『黒い絵』シリーズで一番有名な絵画です。とても恐ろしい絵画なのですが、ゴヤはなんとこの絵画を晩年すごした家の食堂の壁に飾っていました。ローマ神話をもとにしたこの絵画は、年をとることを嫌っていたゴヤがこの神話にひきつけられたとか、ゴヤの心の闇をあらわしているなど言われています。マドリードのプラド美術館にあります。
宮廷画家と心の闇を描いた画家の2つの顔をもつゴヤの作品の中で、心の闇を描いた作品の方が現代でもとても評価されています。暗い中にもゴヤの情熱が感じ取れる作品のおおくはゴヤの故郷であるスペインで多く見ることができます。
【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

 

ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais) http://seiki2211.shop/1445-2/ m01 (3)

 

ラファエル前派
1829年6月8日‐1896年8月13日
ミレイとミレーというよく似た画家の名前を聞いたことがあるでしょう。どちらがどちらかよくわからない人もいるかもしれません。でもこの二人は別人ですし、絵画を見れば違いがよくわかります。ミレイの絵画はやわらかな雰囲気をもちつつ、とても細かい部分までていねいにかかれています。絵に描かれている人物が、まるで今にも動き出すのではないかと思うくらいです。ミレイという人は一体どんな人だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ミレイのプロフィール
イギリスの南部に位置するサザンプトンという町の裕福な家の子供としてミレイはうまれました。ミレイは身体が弱かったので学校には行かず、母親に勉強を教わっていました。
幼いころから絵の才能があることに気がついた両親は、本格的に絵の勉強をさせようと家族でロンドンに引っ越します。そして、ミレイはわずか史上最年少の11歳で、ロイヤル・アカデミーに入学したのです。
アカデミーの中でもずば抜けた才能を持っていたミレイはすぐに注目を集めました。そして、アカデミーでハントとロセッティに出会ったのです。この3人を中心としてラファエル前派を結成したのですが、ミレイは当時まだ19歳でした。ラファエル前派を結成してから制作した作品は、「ラファエル前派である」ということで批判されてしまいます。
しかし、ラスキンという人物がラファエル前派を擁護してくれたことにより、ミレイたちは批判されることがなくなりました。ミレイはこのラスキンに感謝の手紙を送り、それがきっかけでミレイとラスキンは仲がよくなりました。ミレイの代表作『オフィーリア』が描かれたのもこの頃で1852年です。その後、一時期ミレイの作品はあまり評価されませんでした。
ミレイはラスキン夫妻とよく旅行に行きました。このとき、ミレイはラスキンの奥さんであったエフィと恋愛をするようになりました。エフィはラスキンとの関係を婚姻無効(結婚そのものをなかったことにすること)にして、ミレイと結婚しました。
結婚後のミレイは生活のため、大衆の好みを意識した作品を多く描くようになりました。それが大成功し、ミレイはイギリスで一番人気の画家となったのです。
24歳で絵画の権威であるアカデミーの準会員となり、1863年の34歳で正会員になりました。1885年には画家としてはじめて准男爵の地位についたのです。
晩年、体調が悪いなか、アカデミーの総裁の地位にまで上りつめました。そして、その4ヵ月後にミレイは咽頭ガンでこの世をさりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ミレイの絵画の特徴
初期のミレイはまるで写真かと間違えてしまうほど、細かい部分まで写実しています。結婚してからは画風が変化し、あまりに細かい部分にまでは時間をかけて描かなくなりました。それでも、ミレイの絵は素晴らしいことにはかわりません。特にミレイの描く子供の絵画はとても人気がありました。
ミレイ自身、子供好きだったこともあり、子供の魅力を絵画で見事に表現した画家でもあったのです。ミレイの絵画は優雅でいて繊細、優しさにあふれている絵画が特徴です。
ミレイの有名な絵画
生前から画家として人気があったミレイの作品は肖像画から歴史や文学を題材にしたものまで幅広くありますが、その中でも特に有名な作品を紹介しましょう。これらの絵画はぜひ知っておいてくださいね。
オフィーリア
オフィーリア – ミレイ
ミレイの作品で一番有名な絵画といってもよいでしょう。この作品をミレイはわずか22歳で描いているのです。この作品はシェイクスピアの「ハムレット」の名シーンを題材にしています。モデルとなった女性は4ヶ月もの間、毎日水をはったバスタブの中に入ってポーズをとり続けたといいます。
オフィーリアに描かれている花は、オフィーリアの運命を暗示するように花言葉から選ばれています。ケシは「死」、パンジーは「かなわぬ恋」、すみれは「誠実」、ひな菊は「純潔」、バラは「若さと美貌」、忘れな草は「思い出」です。ロンドンのテイト・ギャラリーにあります。
ブラック・ブランズウィッカー
出兵前の兵士とその妻の別れのシーンを描いた題材に人々は感動しました。それだけではなく、まるで写真のようにも見える衣装や壁のこまかい模様が素晴らしい作品でもあります。この作品の壁にはダヴィッドのナポレオンの絵が飾られているのがわかります。レディー・リーヴァー美術館にあります。
シャボン玉
ミレイの孫をモデルにした作品です。この作品を見ると、ミレイが子供の魅力を最大限に表現する才能があったことがわかります。『シャボン玉』は石けんの広告にも使われて、国中で有名な作品となりました。A&Fピアーズ社が所有しています。
ラファエル前派の画家としてスタートしたミレイは、時代がすすむにつれて画風がどんどん変化していきました。20世紀になってからは「金のために自分の芸術を犠牲にした天才」とも批判されたことがあります。たしかにそんな時期もあったのかもしれません。しかし、後期のミレイは心から絵を描くことを楽しんだ人なのです。
ミレイと関係があった画家:ハント、ロセッティ
【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

 

ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt) http://seiki2211.shop/1447-2/ ‎h01

 

ラファエル前派
1827年4月2日‐1910年9月7日
印象派など新しい手法で鮮やかな絵画が多くなったのが19世紀後半の絵画の特徴です。ですが、そんな中、宗教的・古典的な絵画を描きつづけたのがハントです。彼を「時代に取り残された画家」という人もいます。確かに、同じ時代に活躍した画家と比べても絵の雰囲気がかなり違うんです。それでも理念に忠実に描きつづけたハントはどういった人物だったのでしょうか。ハントが絵を描くときに持ち続けた理念(こだわりのこと)とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ハントのプロフィール
1827年ロンドンの商店の息子としてハントは生まれました。12歳のときには不動産の事務員として働いていました。ハントは1844年にロイヤルアカデミー美術学校に合格します。この合格は3度目の受験でした。
この美術学校でハントはミレイ、ロセッティと出会います。彼らは、美術学校の古典絵画ばかりを教える学校の教え方に不満をもっていたため、ハント、ミレイ、ロセッティを中心として「ラファエル前派」を結成しました。ハントはラファエル前派の理念を忠実に守っていました。
ハントは聖書・や伝説を題材にした絵画を描くためには、実際に現地を見なければ描くことができないと考えて1854年、1869年、1873年の3回にわたりパレスチナに旅行しています。ラファエル前派が宗教的絵画から離れてからもハントは宗教的意味合いが濃い作品を描きつづけたのです。
1860年代以降はアカデミーへ絵画を出品することはしなくなり、個人で作品を発表することが多くなりました。1910年にロンドンでなくなりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ハントの絵画の特徴
ハントが最後まで守りつづけていたラファエル前派の理念は、絵画の題材は中世の聖書や伝説、文学を取材し、細かいところまでしっかりと描くのが特徴です。
ハントはこの理念を守りつづけ、ラファエル前派が解散した後もこの考えを忠実に守って、宗教的な絵画を描きつづけたのです。背景や周囲に自然を描く時は、ラファエル前派の思想である「自然を忠実に再現する」こともつらぬいていて、写実的な絵画でもあります。
空想を描いているのですが、人物のモデルや背景、小物にいたるまでハントは身の回りの人やものを観察して忠実に再現しているのです。
ハントの有名な絵画
ハントの絵画の多くは、聖書を題材にした作品が多くあります。その中でも有名な絵画を紹介しましょう。
贖罪の山羊
贖罪の山羊 – ハント
この作品で描かれているのは聖書の世界です。そして舞台になっているのは、パレスチナだったので、ハントはその風景を忠実に描くためにパレスチナにいきました。ハントは以後40年もの間、『贖罪の山羊』の世界を描き続けました。山賊におそわれないように、銃を持ち歩きながらスケッチをしていました。
ラファエル前派が解散した後も、ハントはミレイと親しく付き合っていました。ミレイが作品を描いているときの様子をスケッチもしています。二人の画風は異なっていましたが、ずっと交流をしていたのです。
ハントと関係があった画家:ミレイ、ロセッティ

 

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti) http://seiki2211.shop/1449-2/ ‎ r01 r02
 

ラファエル前派
1828年5月12日‐1882年4月10日
詩人であり、画家であったロセッティは新鮮な色彩が美しいことで有名です。ロセッティが描いた人の絵には、実は「ある特徴」があります。それを知らないままに絵を見ているのと、知ってから絵を見ると、また違いますよ。「ああ、なるほど!確かにそうかも」と思ってしまいます。個性的でこの時代の絵画の風習の常識を気にすることなく、絵を描きつづけたロセッティとはどんな画家でどんな人生をあゆんだのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ロセッティのプロフィール
ロセッティは1828年、イタリアからイギリスへ亡命してきた詩人の子供としてロンドンにうまれました。ロセッティは4人兄弟なのですが、詩人や美術評論家、語学の研究者とロセッティも含め才能に恵まれた一家でした
。ロセッティ自身も父親と同様に詩をよく書いていました。詩人になるか画家になるかを悩みつつ、17歳で美術学校に進学したロセッティですが、学校の授業は嫌いだったようです。
この美術学校で、ロセッティはハントとミレイに出会います。3人はそれぞれ全く違う性格で、画風も違っていたのですが、美術学校の教え方に不満をもっていたという共通点から親しくなりました。
そして、当時のイギリスの美術界に生気がないのは16世紀の巨匠ラファエロからだと考えたロセッティたちは、それに反発するために「ラファエル前派(The Pre-Raphaelite Brotherhood)」を秘密に結成したのです。
そして1849年にはPRBの署名を入れた『聖母マリアの少女時代』という作品を発表し、評判になります。しかし、PRBの意味が世間にバレるとマスコミはロセッティたちをはげしく非難しました。この時代、ラファエロは世界で最高の画家と考えられていたのです。その非難にショックをうけたロセッティは二度と公には絵画を発表しないと誓ったのです。
このことがあってからロセッティは、しばらく油絵を描こうとせずに水彩画をかいていました。そして1850年代半ばには、ラファエル前派は解散してしまいます
。ロセッティは公に絵画を発表しないながらも、絵はよく売れていたので裕福な生活をしていました。ですが、妻に先立たれたときに一緒に入れた詩集を数年後に掘り返して取り出したこと、妻以外の女性との恋愛などがもとで不眠症になっていました。ロセッティは次第に健康を損ねていきました。そして1882年にこの世を去りました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ロセッティの絵画の特徴
詩人でもあったロセッティは最初のころ、女性の上半身以外をうまく描く事ができずにいました。そのため、ロセッティの作品には女性の上半身のみを描いた絵画が多いのです。
またロセッティは他のラファエル前派のメンバーが描く絵画のように、細部までの細かい描写をあまり好まなかったようです。背景や風景を細かく描くことを嫌っていました。
ロセッティは油絵と同時に水彩画も多く残しているのですが、彼は他の画家のように油彩と水彩の描き方を区別せずに描いているのが特徴です。油絵を描く場合も水彩画のように絵の具を何層も重ねず、薄く塗っているのです。
ロセッティの有名な絵画
ロセッティの絵画には女性が多く登場します。ロセッティの絵画のモデルには彼が愛した女性たちをつかっているのです。
ベアタ・ベアトリクス
ベアタ・ベアトリクス – ロセッティ
この絵画は1862年になくなった妻の思い出として描かれました。妻がなくなったとき、ロセッティは別の女性に気持ちが向いていましたが、それを後悔してこの作品を描いたといわれています。ダンテの作品をモチーフにしています。ロンドンのテイト・ギャラリーにあります。
モンナ・ヴァンナ
モンナ・ヴァンナ – ロセッティ
ロセッティの絵画の中で一番華やかな作品で、衣装のゴージャスさが非常に印象的です。女性の表情や髪の毛も丁寧に描かれているのですが、顔と身体のバランスが悪いことがわかります。ロンドンのテイト・ギャラリーにあります。
過去からの風習にしばられることを嫌ったロセッティは、イギリス美術の改革を目指した画家でした。詩人であり画家であった彼は、絵画の中に詩的な雰囲気をかもし出していました。
ロセッティと関係の深かった画家:ミレイ、ハント
【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

 

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse) http://seiki2211.shop/1451-2/ w01 w02
 

ラファエル前派
1849年4月6日‐1917年2月10日
名前はあまり聞いたことがないかもしれません。ですが、絵を見ると「見たことがある!」という人も多いでしょう。詩のように美しく、繊細な絵画が印象的なウォーターハウスはラファエル前派に分類されています。まるで本物かのようにも見えるていねいにかかれているウォーターハウスの絵は、ずっと見ていてもあきません。若くして画家として成功したウォーターハウスはどのような人物だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ウォーターハウスのプロフィール
両親ともにイギリス人の画家で、その子供としてローマでうまれました。5歳のときにイギリスに戻っています。子供の頃のウォーターハウスは父親に絵画を教えてもらい、多くの物語や伝説が書かれた本を読んでいました。
1870年にイギリスの国立美術学校に入学し、1874年には初めてアカデミーに『眠りと異母兄弟、死』という絵画を出品しています。早くから絵画の構図やテクニック、色の使い方を学んでいたウォーターハウスのこの作品はとても好評で、これ以降毎年のようにアカデミーの展示会にまねかれるようになります。美術学校時代には、ラファエル前派であったミレイの講義を聞いています。
1883年にはエステルという女性と結婚します。彼女も絵を描き、アカデミーに出品する腕前でした。
ウォーターハウスは、1885年にロイヤル・アカデミーの準会員に、1895年には正会員になりました。若いときから世間に認められた画家であったウォーターハウスですが、私生活の資料はほとんど残っていません。後期のウォーターハウスは絵画を制作するだけでなく、美術クラブでラファエル前派の画家たちの育成も行なっていました。1917年、ロンドンでなくなりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ウォーターハウスの絵画の特徴
ウォーターハウスの絵画はとてもロマンチックで、美しい詩を絵画にしたような雰囲気さえあります。そのため、ウォーターハウスが描いた絵は、お金持ちの人たちにとても人気がありました。
神話の中の女性たちを題材にすることが多く、そこに描かれている女性たちは理想的な肌、顔をしています。それでいて服や背景などはまるで写真じゃないかと思うほどの素晴らしさです。
ラファエル前派と象徴主義の両方の雰囲気をもつのが、ウォーターハウスの絵画なのです。
ウォーターハウスの有名な絵画
描かれている女性は美しく、表情や動き、背景もが細かく描かれているウォーターハウスの絵画は、まるで物語を見ているかのような気持ちにさせてくれます。その中でも特に有名なウォーターハウスの絵画を紹介しましょう。
オフィーリア
オフィーリア – ウォーターハウス
ラファエル前派のミレイのオフィーリアも有名ですが、ウォーターハウスのオフィーリアも有名です。ウォーターハウスはオフィーリアの話が好きだったため、オフィーリアを題材にして3枚の絵画をのこしています。いずれも川の近くで花とともにいるオフィーリアが美しく描かれています。ウォーターハウスが描いた3枚の中で一番有名な『オフィーリア』は個人所有の絵画です。
シャロットの女
シャロットの女 – ウォーターハウス
テニスンという人が書いた短編の詩「シャロットの女」を題材にして描かれた作品です。ウォーターハウスは、これを題材にした作品をやはり3枚描いています。今にも泣きそうな顔の女性と、女性が織っていた布が印象的な作品なのですが、個人的には後ろの背景の素晴らしさに感動してしまいました。ロンドンのテイト・ギャラリーにあります。
ウォーターハウスのことを名前も知らなかった、絵も見たことがないという人もいるでしょう。でも一度見ると、その素晴らしさにきっと立ち止まってじっと見つめてしまうはずです。もし、ウォーターハウスの絵画を見ることがあれば、ぜひじっくりと見てください。

 

エドゥワール・マネ(Edouard Manet) http://seiki2211.shop/1453-2/ m02 (2) m03 (1)

 

 

 

印象派
1832年1月23日‐1883年4月30日
マネとモネ、よく間違われるのですが全くの別の画家です。私も子供の頃は、マネとモネがごちゃ混ぜになっていたことがありました。マネは、とても上品で紳士だと画家仲間でも評判の良かった人ですが、彼が描く絵はいつも世間をにぎわせて批判されていました。現代の私たちがマネの絵を見ると、とても綺麗だと感じます。ですが、彼が生きていた時代は、好きなように絵を描くと周囲から批判されてしまうこともありました。そんな時代に生きたマネとは、一体どんな画家だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

マネのプロフィール
マネの本名はエドゥワール・マネといいます。1832年にパリの高級官僚の子供としてうまれました。父親はマネを法律家に育てたいと考えていましたが、マネは16歳の頃に画家になりたいと考えていました。しかし、父親は画家になることを許さず、親子の間はぎくしゃくしてしまいます。
その状況から逃げ出したかったマネは、船に乗って働き出します。
マネが18歳のときに再び画家になりたいと父親を説得してようやく画家のたまごとしてスタートすることができました。
マネは昔の絵画を尊敬していたので、構図を参考にして何枚も絵画を制作しました。
しかし、マネが描いた作品はとても批判されてしまうのです。批判されることによってマネの名前は一気に有名になってしまったのです。あまりのショックに、マネはしばらく絵を描くことすらできなくなりました。絵画は売れませんでしたが、裕福な家だったので生活に困ることはなかったようです。
マネはサロンで認められることを常に望みながら描いていましたが、1870年代まで認められませんでした。マネがようやく評価されはじめたころ、マネは病気になってしまいます。神経系がマヒしてしまい、手足が動かなくなってしまったのです。そして1883年、51歳でこの世をさりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
マネの絵画の特徴
マネは、スペインやイタリアの影響を受けていますが、明るい色、立体感・遠近感をあまり感じさせない平面的な絵画を多く残しています。
これは印象派の特徴でもあります。しかし、印象派の多くは黒色をほとんど使うことはありませんでしたが、版画もやっていたマネは、絵画の一部に黒を取り入れています。遠近感や立体感をつけなかったマネの作品は、当時の人たちは、マネに立体感を出す手法を知らないからだとも言われていました。
マネは絵画を制作する題材として選んだものの多くは、現代の生活を描いていました。マネは、「印象派」という枠にとらわれることなく、風景、日常、肖像、伝統的なものなどを油絵やパステルで描き続けたのです。
今では印象派に分けられているマネなのですが、実際は印象派におさまりきらない絵画も多くあり、現在の研究家たちをなやませているのです。
マネの有名な絵画
草上の昼食
草上の昼食 – マネ
マネがこの絵を描くまで、女性の裸像は女神に限られていました。しかし、マネは生身の女性を描いたのです。このことがパリ中の批評家たちにとっては下品にうつったのです。現実的すぎる状況を描いた草上の昼食はこれまでの伝統的様式に対する挑戦だと受け取られてしまいました。構図そのものはラファエロを参考にしています。オルセー美術館にあります。
オランピア
オランピア – マネ
サロンに入選した作品ですが、草上の昼食以上に批判をあびた作品です。タイトルの女性の名も批判の対象になりました。女性が身につけているものや周りに配置されているものからも、女性の職業をはっきりと表現しています。マネ自身はオランピアを自分の最高傑作と考えていました。現代ではもちろん評価の高い作品です。オルセー美術館にあります。
笛吹き
笛吹き – マネ
マネの友人が笛吹隊の少年をモデルにして欲しいと連れてきた少年を題材に描いています。ポーズはモデルを描いているのですが、顔はマネの息子をもとにしているといわれています。教科書にものっている絵画なので、見たことがある人は多いのではないでしょうか。スペインの画家の構図を参考にしています。これもオルセー美術館にあります。
マネは非常に個性的な絵画を描き、他の印象派にも大きな影響を与えています。世間に批判されつつも絵画を描き続けた彼は、晩年にようやく認められるようになりました。現在では、モダンアートの創始者ともいわれています。

 

エドガー・ドガ(Edgar Degas) http://seiki2211.shop/1455-2/ ‎
d01 (1) d02 (1)

 

印象派
1834年7月19日‐197年9月27日
バレエの踊り子の絵画で有名なドガは、優雅(ゆうが)な雰囲気をもつ絵画が多いですよね。人物の絵をかいていますが、ドガは印象派に分類されています。ですが、絵の構図はこれまでの絵画の手法を取り入れてもいるのです。伝統的なものと新しいものを両方取り入れた絵を残しているドガは、バレエのシリーズ以外でもたくさんの作品を残しています。ドガは、絵画のように柔らかい優しい人物だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ドガのプロフィール
ドガは1834年にパリでうまれました。洗礼名はイレール=ジェルマン=エドガー・ド・ガスといいます。画家になったときに言いやすいようにと簡単な「ドガ」に名前を変えました。
ドガは裕福な家庭で育ち、10代の頃は法律を学ぶための学校にいかされていました。しかし、画家になりたいと思ったドガは18歳で学校をやめてしまいます。
ドガはジャン・アングルという画家はドガのデッサン力の素晴らしさを見て、「線をたくさん描きなさい」とアドバイスされ、その教えをずっと守りつづけました。
22歳からの3年間のドガはイタリアでルネサンス芸術を学びます。この当時のドガは印象派ではなく、昔ながらの伝統的な手法で絵画を描いていました。パリに戻り、印象派のマネと知り合い、お互いに影響を与える存在になりました。
ドガが本格的に絵画を売って生活をし始めるようになったきっかけは父の死でした。父親が経営していた銀行の負債を返済していくために、家や美術品のコレクション、そして自分の絵画を売るようになったのです。
この頃からのドガはとても内気で不器用な性格のため、周囲の画家からも敬遠されるようになりました。少ない友人との付き合いの中、ドガはバレエの踊り子を中心に描くようになります。一生独身で、晩年は視力の低下から失明寸前にまでなり、1915年にこの世をさりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ドガの絵画の特徴
ドガは現在では印象派の画家に分類されていますが、本人はそう呼ばれることを好きではなかったようです。他の印象派の画家たちは屋外に出て絵画を制作しましたが、ドガは主にアトリエにこもって絵を描いていました。
ドガの絵画の特徴は、印象派に多くみられる鮮やかな色彩をメインにした近代化の部分と、古くからの技法であった写実的な手法を守り続けたいという両方の気持ちがあらわれていることです。
また、ドガは大胆な構図で絵画を制作しています。中心がずれている構図や、画面の端で顔がきれてしまっている人物などいろいろと試しています。これは、日常生活で目にしている何気ない瞬間をきりとっているような印象すらうけます。構図だけでなく、ドガは油絵、パステル画、版画で表現するようになります。
これらの絵画は実際に見ながら描いたものではなく、ドガ自身の記憶をもとにして構図を少しずつ変化させながら描いていることも特徴的です。
ドガの有名な絵画
ドガの絵画ではずすことができない代表はバレエの踊り子でしょう。それ以外にも馬やパリの生活の一面を描いたものが有名です。
バレエのレッスン
バレエのレッスン – ドガ
舞台で踊っているバレエの踊り子もありますが、この「ダンスのレッスン」は、バレエの練習風景を絵画にしています。この絵画は遠近法をうまくとりいれ、赤い色を加えることで更に絵画に奥行きを持たせています。この絵も何度もドガは描きなおしています。パリのオルセー美術管にあります。
アイロンをかける女たち
アイロンをかける女たち – ドガ
パリの日常生活の一部が題材にしている絵も多く描いているドガの絵画でも特に有名な絵です。2人のアイロンをかけるクリーニング屋さんの女性は、一人は一生けんめいに力をいれてアイロンをかけていますが、一人は疲れてあくびをしています。毎日仕事をしているとこんな風景もあったのでしょう。これらもモデルをおいて描かれているわけではありません。パリのオルセー美術館にあります。
ロンシャン競馬場
あまり外出しなかったドガが興味をもって外の風景を描いたのが競走馬です。ドガは馬が走っているシーンよりも、スタート前、緊張して静かになった画面を好んで描いています。この絵もスタート前を描いています。ですが、現実の場面ではなくドガが記憶していた風景と馬を構図に配置した絵画なのです。ボストン美術館にあります。
ドガの作品はパステルが使われているものがあり、保存が難しい絵画でもあります。美術館側も照明を落としたり、ガラスケースにいれて保存していたりします。
何度も同じ題材を描き続けていたドガはこのような言葉を残しています。
「同じ主題を10回でも100回でも描かなければならない」

 

ポール・セザンヌ(Paul Cezanne) http://seiki2211.shop/1457-2/
s01 s02 s03

 

 

 

印象派・後期印象派
1839年1月19日‐1906年10月22日
ぺたっとした感じの絵が印象的なセザンヌは、自然を描き続ける印象派でありながら、その中に幾何学的なデザインを斬新に取り入れた画家としても知られています。セザンヌの絵に影きょうを受けた画家にピカソもいるんですよ!印象派の画家でありながら、『近代絵画の父』と呼ばれているセザンヌはどんな画家で、どんな人物だったのでしょうか。彼が描いた絵からだと、セザンヌの性格はちょっと想像がつかないかもしれません。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

セザンヌのプロフィール
ポール・セザンヌは、1839年にフランスの小さな町エクスの裕福な商人の家に生まれました。しかし、セザンヌの父親はとても厳しい人でセザンヌはいつもビクビクしながら生活してしました。
10代後半から絵画教室に通うようになったセザンヌは画家になってパリに住みたいと思うようになります。ですが、父親に言い出すことができずにいました。1859年に思い切って画家になりたいと両親に頼み、2年間に渡り説得し続けたのです。そして、1861年にようやくパリに移り住むことになります。
半年で精神的不安定になり、故郷に戻るのですが1862年には再びパリに戻り、本格的に画家として活動をはじめたのです。
当時パリにはセザンヌ以外にも現在印象派と呼ばれる画家たちが多く集まっていました。セザンヌもそのメンバーの一人ではあったのですが、おくびょうで人付き合いが苦手だった彼はなじむことができませんでした。
そんな中、ピサロとは仲良くなり、絵画の技法を教わっています。このセザンヌの性格や不安は絵画にもあらわれています。
セザンヌの絵画が多く変化するのは30歳ころで、これまでの絵画とはガラリと雰囲気が変わります。それは、オルタンスという女性と知り合ったためといわれています。オルタンスは後にセザンヌの子供を1人うみ、結婚しました。
絵画の技法の研究をずっとしていたセザンヌですが、なかなか世間には認められませんでした。サロンと呼ばれる美術展に何度も絵画を出品しているのですが、入選したのはたった1度で43歳のときでした。しかもその入選は、友人であった審査員に頼み込んでだったのです。
友人が少なく、人付き合いもあまりなかったセザンヌは、パリではほとんど無名だったのですが、セザンヌの晩年に画商がパリで個展をひらいたのをきっかけにして、有名になっていったのです。
セザンヌは、晩年再びうまれ故郷であったエクスに戻り、1906年に雨に打たれ肺炎をこじらせたのが原因で、その生涯をとじました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
セザンヌの絵画の特徴
セザンヌは、印象派ではありますが、そのままの情景を描いていたわけではありません。自然の中に幾何学を見つけ出し、それを表現しようと追求していた画家でした。特にセザンヌが得意とした絵画は静物画で、独特の手法を取り入れています。
長方形の筆づかい
セザンヌの絵画の特徴に筆づかいがあります。色を塗っている部分を良く見ると、ひとつひとつの筆づかいが長方形に近い形で塗られています。その長方形を並べて建物や木が構成されています。この手法は年代がすすむと正方形に近くなっていきます。このように長方形に描くことで、絵画に統一感を出しています。
幾何学的な構成
自然の中に幾何学的配置を見つけ出そうとしたセザンヌの手法は、描かれているものの配置はかなり計算されています。セザンヌが「近代絵画の父」と呼ばれている理由の一つがこの構成方法なのです。描かれているものの配置は、パッと見ただけではわかりにくいのですが、まる、三角、円すい、円柱になるように丁寧に配置されているのです。
この幾何学的な構成は、20世紀になりピカソにも強く影響を与えたのです。
リンゴと山
セザンヌはリンゴと山の絵画を多く描いています。特にリンゴはひんぱんに題材にもなっていて、60点以上もの絵として残っています。また山の絵は晩年に多く描かれていて、こちらも40点以上の絵が残っています。リンゴも山も平面的にも見える色の塗り方をしていますが、色によってわずかなり立体感を出しています。
白い余白
これまでの絵画にはあまり見られなかったことなのですが、セザンヌの絵画には、部分的にあえて絵の具が塗られていないものがあります。これは決して未完成ではなく、完成させるために色を塗っていない部分が必要だったのです。これ以上色をつけても意味がないと判断したり、どの色を塗っても全体の考え抜かれた色彩のバランスが壊れてしまう場合など、セザンヌは色を塗らなかったのです。
セザンヌの有名な絵画
数多くの作品を残しているセザンヌの絵の中で代表的な作品は、次のものがあります。これらの作品はぜひ覚えていてくださいね。
オレンジとリンゴ
オレンジとリンゴ – セザンヌ
セザンヌの絵画の中でもっとも有名といわれている絵画のひとつです。無造作に並べられているかのように見えるオレンジとリンゴは、幾何学的にかなり細かく配置されています。そして、一つ一つのリンゴの色も色彩バランスを考えて塗られているのです。皿やリンゴのつみ方は、実際にはありえないような不自然さがあるのですが、これもゴーギャンの幾何学的手法の一つなのです。パリのオルセー美術館で見ることができます。
カード遊びをする2人の男たち
カード遊びをする2人の男たち – セザンヌ
この絵画にもセザンヌの絵画の特徴である白の余白があります。この絵をぱっと見ると、男の人2人がただ戸ランプをしているだけの絵にしか見えません。しかし、この絵は革命的な絵画といわれているんですよ。それは、これまで伝統的であった遠近法を無視して描いているのです。テーブルの形、男性の脚の形を良く見ると現実で一方向から見た場合ではない形をしているのです。ロンドンのコートールド・インスティテュート・ギャラリーにあります。
サント・ビクトワール山
サント・ビクトワール山 – セザンヌ
セザンヌの心をとらえて離さなかった自然の題材としてこのサント・ビクトワール山があります。山の描き方も晩年になるほど、のびのびとして穏やかに描かれていますが、実際の山とはかなり違っています。ここにも考え抜かれた色づかい、自然をただ模写するだけではなく、その奥深さをこの山を通して追求しつづけていました。サント・ビクトワール山のシリーズで一番有名な作品はフィラデルフィア美術館で見ることができます。
教科書や本、画集でセザンヌを見ただけでは、何がすごいのかよくわからないでしょう。私もそうでしたし。セザンヌの絵画の特徴である、白い余白(塗り残し)は実際に絵画を見ないとその存在感がよくわかりません。幾何学的な構成だといわれても、小さな写真だけではわかりにくいでしょう。セザンヌがあまり好きでないという人も、結構いるのではないでしょうか。でも、本物のセザンヌを見る機会があればぜひぜひ見てください。たぶん、これまでのセザンヌのイメージと変わりますよ。
セザンヌはこんな言葉を残しています。
「自然の中に、円筒形と球形と円すい形をみつけなさい」
セザンヌと関係があった画家:ピサロ

 

ピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Reoir) http://seiki2211.shop/1459-2/
r01 (1) r02 (1) r03_s

 

 

 

印象派
1841年2月25日‐1919年12月3日
「ルノワール」の絵画といえば、どのようなものがあるのでしょうか。ルノワールの絵画にはおだやかでやさしい印象をもっている人も多いでしょう。日本人が「この絵はいいな」と思うことが多く、日本ではとても人気がある画家の一人なんですよ。明るい絵、そしてそこに描かれている人たちのやさしい表情が人気なのでしょうね。そんなルノワールは一体どんな人でどんな絵画を描いていたのでしょうか。ルノワールは絵を描くことが大好きだったことがわかってきますよ。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ルノワールのプロフィール
彼の本名はピエール=オーギュスト・ルノワールといい、19世紀の印象派の代表画家として有名な人です。ルノワールは1941年にフランスのリモージュで生まれ、4歳からは家族全員でパリに移り住みました。ルノワールは家族が仲良く、みんなが働き者で幸せな少年時代を過ごしています。
13歳になると、ルノワールは陶磁器の絵付け職人として働き始めます。ここではすでに絵の才能を開花させていくのです。しかし、機械で食器にプリントする技術が導入されることでルノワールは職を失ってしまうのです。
その後、ルノワールはパリで有名だった絵画塾の学生になり、本格的に絵画の勉強をはじめるようになりました。この塾でルノワールは同じ印象派となるモネやシスレーと出会い、友人関係を広げていくのです。ルノワールは、落ち着いていて控えめな性格もあり、たくさんの人に親しまれている画家でした。彼らとはよく森で写生をおこない、現在でも初期の印象派の絵画として残っています。
ルノワールをふくめ印象派の画家たちの絵画は、はじめは世間になかなか認められませんでした。そんな中でもルノワールは絵を描き続け、少しずつファンを増やしていったのです。
ルノワールのファンになった人たちは肖像画を描いてくれるように頼み、その収入で生活をしていたのです。
40歳をこえてから、結婚したルノワールは家族とともに幸せな生活を送りながらもずっと絵を描き続けました。晩年、車椅子で生活するようになってからも絵を描き続けていたのです。1919年のなくなったその日も、ルノワールはアネモネの絵を描いていたといいます。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ルノワールの絵画の特徴
印象派の代表的画家であったルノワールは年代によって少しずつ画風が変化しています。
初期の絵画の特徴
画商やパトロンを通じて、依頼された肖像画を多く描いていました。初期のルノワールは貧しかったのですが、収入のほとんどを肖像画で稼いでいました。肖像画以外の絵画では、光と緑の中で友人たちが楽しく過ごしている様子をよく描いていました。
中期の絵画の特徴
この時期も人物を中心に描いているのですが、色合いが渋くかたくなっています。これは同じ19世紀の画家であったクールベの影響を強く受けているからです。そんな絵を描いていたルノワールを見た画家の友人の一人が「なぜそんなに暗い色を使うのか?」と言ったといいます。それを聞いたルノワールは再び明るい色を使った絵画を描きはじめるようになったのです。
後期の絵画の特徴
ルノワールは、年をとるにつれ人物画を多く描いています。どれも優しく穏やかな表情をしており、それらの絵画を見ているとルノワールが周りの友人や家族を大切にしていたかがわかるほどです。人物のりんかくも丸くなっていき、特に女性を中心とした明るい絵を描くようになりました。
ルノワールの有名な絵画
人物画を多く描いているルノワールですが、その中でも特に有名な絵画を紹介しておきましょう。
ムーラン・ド・ギャレット
ムーラン・ド・ギャレット – ルノワール
絵画のタイトルにもなっている「ムーラン・ド・ギャレット」はモンマルトルにあるダンスホールで、ここで楽しく話をしたり踊ったりとみんな楽しそうにしています。この絵は、ルノワールがムーラン・ド・ギャレットを舞台にした絵を描きたいと思ったとき、友人たちにモデルを頼んだ作品でもあります。光と緑の中で、とても楽しそうにしているこの絵画を見ていると、見ている私たちまでウキウキした気分にさせてくれます。オルセー美術館にある絵画です。
船遊びの昼食
船遊びの昼食 – ルノワール
ムーラン・ド・ギャレットと似たようにたくさんの人物が描かれている大きめの絵画ですが、全体的に少し暗い色で描かれています。ですが、この暗さは日差しの暖かい雰囲気が伝わるような感じですね。船遊びの昼食もルノワールの友人たちがモデルになっています。この絵画はワシントンDCにあるフィリップス・コレクションにあります。
都会の踊り
都会の踊り – ルノワール
ルノワールのダンス三部作と呼ばれている絵画のうちの一つです。全体的に冷たい色を使って落ち着いた雰囲気、優雅さを出している絵画です。ダンスシリーズはこれ以外に「田舎のダンス」と「ヴージヴァルのダンス」があります。パリのオルセー美術館に展示されています。
ルノワールは、自分が楽しくなれる絵画を描き続けました。その考えは絵全体にもあらわれていて、絵画を見ている人も楽しくなれるような気分にさせてくれます。ルノワールは絵を描くことをとても愛していた画家なのです。
ルノワールと関係が深かった画家:モネ

 

クロード・モネ(Claude Monet) http://seiki2211.shop/1461-2/ ‎
m01 (5) m02 (3) m03 (2)

 

 

 

印象派
1840年11月13日‐1926年12月5日
印象派の「光や風景の動きや雰囲気をいかに絵の中に表現するか」というかき方に一番誠実でていねいにかき続けた画家がモネです。モネの「睡蓮(すいれん)」は学校の教科書にも載っていますから、「モネ」という名前を聞いたことがある人も多いでしょう。「光の画家」とも呼ばれているモネは、睡蓮(すいれん)以外にも数多くの美しい作品を残しています。『印象派』という言葉が誕生したきっかけは、モネの作品からなのです。印象派の代表、モネについてもっと知ってみませんか?

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

モネのプロフィール
「モネ」という名前は短いようですが、本名はクロード=オスカール・モネとといいます。1840年にパリで生まれ、幼い頃にセーヌ河口の近くの町に引っ越します。裕福な家庭で育ったモネは、10代の早くから絵の才能を見せはじめます。
15歳の頃には、町中で評判になり絵画が売れるほどになっていました。そんなモネに風景画を描くようにすすめたのが、風景画家だったブーダンです。ブーダンと一緒に外で絵を描くようになったのです。
その1年後、モネはパリに移住して絵画を本格的に学び始めます。パリには芸術家たちが集まっていて、モネもここでルノワールやドガ、セザンヌたちと出会ったのです。そして、彼らは自分たちで新しい絵画をつくろうと展覧会を1874年に開くのです。しかし、モネをはじめとした彼らの絵画は、世間には受け入れてもらえませんでした。これまでの絵画は、重くるしい色に題材がしっかりはっきりと描かれているものでした。モネたちの絵画は明るくあざやかな色を中心として、見たままの景色を描いていたからです。この展覧会を見た評論家たちは、モネが展覧会に出品していた作品『印象・日の出』から彼らを印象主義者だといったのです。これが印象派と呼ばれるきっかけになったのです。
モネも他の印象派の画家たちも世間に認められるようになるまで、長い時間がかかりました。今でこそ、巨匠と呼ばれるモネでも、世間に認められて絵画が売れるようになったのは40歳以降だったのです。
生活が安定するようになったモネは43歳でジヴェルニーという村に移住します。風景画を描き続けていたモネは、花をとても愛していたのでとても広い土地に花や木を植えた美しい庭をつくりました。
それ以降のモネの作品の多くは、この庭の絵が中心です。有名な「睡蓮」もモネの庭の睡蓮が題材になっているのです。
印象派の中でも長生きだったモネは1926年86歳まで生きました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
モネの絵画の特徴
モネは印象派の理想とした、外で絵を描き続けることを実践し続けた画家でした。モネがずっと描こうとしていたのは「変化し続ける光と雰囲気の印象」だったのです。モネは常にそれを追求していた画家でした。
そのため、モネは同じ題材を何枚も絵画にしています。同じ題材があっても、日の当たり方や時間によっての色の変化、風の流れがありますよね。普段私たちはそれらをあまり気にせず、生活をしています。ですが、モネはその変化を敏感にキャッチして時間ごとに、別のキャンバスに絵を描き続けていたのです。これらは連作と呼ばれています。
モネの求めていた「雰囲気の印象」と聞いても意味がよくわかりませんよね。例えば、普段目にしている景色には家や木、川や畑があります。私たちはそれらを見ながら「あれは家だ」「あれは木だ」と見たものと名前を無意識に確かめています。ですが、物の名前を確認するのではなく「三角の赤がある」「四角いブルーがある」と見た色をそのまま描いていこうとしたのがモネの絵なのです。
モネの代表的絵画に「睡蓮」がありますが、この睡蓮は、近くで見たら何がなんだかよくわかりません。明るい部分の色、暗い部分の色といった感じですが、睡蓮という花だとは気づきません。絵画からはなれてもう一度見てみると、不思議なことにそれはちゃんと睡蓮の絵が描かれているのです。
人が見ている景色と光とがたしかに「印象」として描かれているのです。
モネの有名な絵画
モネは人物画をほとんど描くことなく、常に風景画を描いていました。その中でもモネの有名な絵画を紹介しましょう。
印象・日の出
印象・日の出 – モネ
「印象派」と呼ばれるようになったきっかけの作品です。うまれ故郷のル・アーブルの港の朝の風景が描かれています。朝もやの中に太陽がのぼっていく様子が、ぱっと見た感じはとても抽象的にも見える絵画でもあります。そのせいで、この絵は厳しく批判されました。パリのモンモッタン美術館にあります。
日傘をさす婦人
日傘をさす婦人 – モネ
モネが珍しく人物を中心にして描いている絵画です。この人物はモネの奥さんです。人物を中心に描いている絵なのですが、よく見ると人物の顔が描かれていません。実はこの絵は風の変化をあらわしているのです。風が強く、雲が流れていく様子が描かれています。パリのオルセー美術館にあります。
睡蓮
睡蓮 – モネ
モネは晩年に睡蓮をテーマにした絵画を多く残しています。睡蓮を描きはじめた頃は、池の周りに木や橋も描かれていましたが、次第に水面と睡蓮のみになっていきました。モネの睡蓮は、ロンドンのナショナル・ギャラリーやパリのセントルイス美術館、オランジュリー美術館などで見ることができます。その中でも特にオランジュリー美術館の睡蓮は、モネが国に寄付した睡蓮で、睡蓮が展示されている部屋は睡蓮以外飾られていません。モネは自分がこの世を去るまで睡蓮の手直しを続けていたのです。それほどまでにモネは睡蓮を愛していたのです。
モネは自然そのものを愛し、それを絵にし続けてきた画家でした。自然の移り変わりを色とともに表現し続けたのです。モネはこんな言葉を残しています。
「すべては千変万化する、石でさえもだ」
この言葉に、モネがどんな絵画を描こうとしていたのかがわかるような気がしますね。
モネとかかわりがあった画家:ルノワール、ドガ、セザンヌ

 

p02
p01 p02

 

印象派
1830年7月10日‐1903年11月13日
ピサロは印象派の画家ですが、モネやルノワールの方が有名ですよね。絵のことにあまり詳しくなければ「ピサロってだれ?」と思う人も多いでしょう。でも、名前は知らなくてもピサロの絵はおそらく教科書などで見ているでしょう。ふんわりとしたやわらかい絵を描いていたピサロは、印象派の画家たちのまとめ役をしていて、だれからも信頼されていた人でした。ピサロの温厚な性格が、絵画にもよくあらわれています。「ピサロは優しい人だった」ということを知った上で、彼の絵を見ると、また絵の印象が変わるかもしれませんね。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ピサロのプロフィール
1830年にカリブ海に浮かぶデンマーク領の島、セント=トマスでうまれました。父親はボルドー地方からそこに来て雑貨店を経営していました。ピサロは11歳でフランスの学校に通いますが17歳で一度故郷に戻ります。しばらくは雑貨店の手伝いをしていましたが、25歳のときに両親を説得して、画家になるため再びフランスにいきました。
フランスに行ったピサロは、パリ万博で展示されていたコローやクールベの絵画を見て、影響を受けます。そして一時はコローのアトリエで絵画の勉強をしていました。1859年29歳ではじめてサロンに風景画『モンモランシーの風景』を出品し、入選しました。この頃に後の印象派となるモネやセザンヌに出会い、一緒に屋外で絵画の制作をしています。
ピサロは他の印象派のメンバーよりも10歳以上年上であり、温厚な人物だったため、画家たちにとても信頼された存在でもありました。1870年には一時期戦争から逃れてロンドンでも生活しています。
ピサロは、印象派のメンバーでただ一人第1回印象派展から第8回印象派展まで出品している画家でもあります。1885年にはスーラやシニャックと出会い、1890年までの間に絵画に点描も取り入れています。
晩年は風景だけでなく、人物画も描いています。晩年には、画家として成功して個展も開催しています。まだ世間に認められていなかった新印象派の画家たちの理解者でもあった彼は、1903年にパリでなくなりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ピサロの絵画の特徴
印象派の画家たちは風景だけを描くことが多かったのですが、ピサロは風景とともに人物も描いています。色合いは印象派らしく明るい色彩です。自然の美しさをすなおにえがいています。そしてピサロの絵画の構図は完成されているもので、考えぬかれています。それらを見ている人に感じさせずに親しみをもたせる画家でもありました。ピサロは常に絵画の技法を研究して、新しい方法も試していました。
ピサロの有名な絵画
どちらかというと印象派メンバーのまとめ役として注目されることが多いピサロですが、絵画にも温厚な性格があらわれています。ピサロの作品は日本国内の美術館でも見ることができます。
テアトル・フランセ広場
テアトル・フランセ広場 – ピサロ
この作品は連作で、さまざまな角度、季節にかかれたテアトル・フランセ広場の絵画です。大勢の人が行きかっている広場のシーンなのですが、とても静かな作品です。『雨の効果』『霧の情景』『陽光の効果』などがあります。
小枝をもつ羊飼いの少女
小枝をもつ羊飼いの少女 – ピサロ
ピサロは人物もよく描いていた印象派の画家でした。農園で働いている少女がすこし休んでいる瞬間を柔らかなタッチで描いています。点描画を描きはじめる前の作品ですが、大きな点描にも見えますよね。パリのオルセー美術館にあります。
ピサロの絵画に共通しているのはやさしさです。ピサロの絵画を見て、ほっとする人やいやされる人が多いのは、ピサロの性格が絵画にもよくあらわれているからなのでしょう。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Van Gogh) http://seiki2211.shop/1465-2/
g01 (1) g02 (1) g03 (1)

 

 

印象派をベースとしている表現主義
1853年3月30日‐1890年7月29日
「あなたの知っている画家は誰ですか?」と聞かれてすぐに思いつく画家にゴッホがいます。ゴッホの「ひまわり」という絵画は有名ですよね。とても高い価格で絵画が買われたとニュースが流れていたこともあります。今でこそ、とても有名なゴッホですが、それはゴッホがこの世を去ってからなのです。画家として生きていた時代のゴッホはどのような人生を送っていたのでしょうか。ゴッホの絵には、たくさんの特徴があります。あなたもゴッホについてもっともっと詳しくなってみましょう♪

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ゴッホのプロフィール
ゴッホの本名はフィンセント・ファン・ゴッホといいます。ゴッホは19世紀の絵画史の中で一番個性的な画家とも言っていいでしょう。ゴッホは1853年3月30日にオランダで生まれ、子どものころから頑固で気むずかしい性格をしていました。
ゴッホが絵画を描きはじめるようになったのは10代のはじめからで、当時は水彩画を描いていました。ゴッホは最初から画家を目指していたわけではありません。画商で働いたり、伝道師をしていたりしたのですが、両方とも長くは続かなかったのです。
伝道師をクビになった後、ゴッホは本格的に絵画を始めるようになりました。ここに画家としてのゴッホが誕生したのです。
フランスで絵を描き続けたゴッホは、気性がはげしかったことと失恋のショックで精神的に不安定になっていたこともあり、他の画家との仲はよくありませんでした。
ゴッホはフランスの村アルルという場所で絵画を制作し続けますが、認めてくれる人はほとんどいなかったのです。今でこそ、高価な絵画の画家として知られているゴッホですが、生きている間に売れた絵画は「赤いぶどう畑」のたった1枚だけでした。
絵画も売れず、生活にも苦しみ、数少ない画家仲間だったゴーギャンともうまくいかなかったゴッホはどんどん精神的に不安定になっていきました。
そして、1890年7月27日に家の中で自分の胸に銃を向けたのです。翌日の朝、それを発見した弟のテオによって病院に運ばれて治療を受けたのですが7月29日になくなりました。
ゴッホが「情熱の画家」「不遇の画家」と呼ばれているのはこのためです。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ゴッホの絵画の特徴
多くの絵画は描き方の特徴によって、○○派と分けられます。ゴッホの絵画には印象派の影響もありますが、それだけには収まりきっていません。どれにも当てはまらない絵画を描いたのがゴッホなのです。ゴッホの絵画の特徴は、黄色とボコボコした厚塗り、そしてゴッホの不安定な気持ちをあらわすかのようなうねりとうずまきです。
黄色が好きだったゴッホ
有名な絵画「ひまわり」を見てもわかるように、ゴッホは黄色がとても好きでした。「ひまわり」以外の多くの絵にも黄色がたくさんぬられた絵画を描いています。ゴッホはアルルで住んでいた家の外がわも黄色にしていました。
すぐに黄色の絵の具がなくなっていたので、弟のテオに手紙を出す時はいつも「黄色の絵の具を買ってきてほしい」と書かれていたくらいです。
厚塗りの絵画
教科書や本に載っているゴッホの絵画を見ても、なんとなくわかるかもしれませんが、ゴッホはキャンバスに絵の具を塗りつけるのではなく、乗せているような描き方をしています。勢いよく塗っている絵も多く、これらの絵画は絵の具が画面から立っていることもあります。
うねりとうずまき
ゴッホ自身が不安定になっていくほど、彼の絵画にはうねりやうずまきが多く登場しています。それは空や雲がうねりうずまいていたり、木のはえ方がうねっていたり、単色のうずまきが背景になっていたりします。これはゴッホが自分の不安な気持ちを、絵画で表現しているといわれています。
浮世絵
ゴッホは日本の浮世絵に興味を持っていたので、絵画にも何度か浮世絵が登場しています。19世紀後半、ヨーロッパでは浮世絵が流行していて安く手に入れることができました。ゴッホもその浮世絵を買った一人です。画家の視点で浮世絵を見たとき、描き方がこれまでのヨーロッパ絵画の中ではなかった方法だったので注目されていました。ゴッホの自画像の背景にも浮世絵が描かれているんですよ。
ゴッホの有名な絵画
ゴッホは、他の画家と比べてもとても多くの作品を残しています。その中でも特に有名な絵画を紹介しましょう。
ひまわり
ひまわり – ゴッホ
ゴッホといえばひまわりははずせませんよね。ゴッホは生きている間に何枚かのひまわりを描いています。いきいきとしたひまわり、少し枯れそうなひまわりなど同じ「ひまわり」でも雰囲気が全然違います。ロンドンのナショナル・ギャラリーでこの絵画を見ることができます。
星月夜
星月夜 – ゴッホ
この絵画もゴッホの作品として有名で、何枚か描かれています。夜の星空の絵画なのですが、月や星の光が大きなうずまき状に描かれています。全体的に暗い色が使われているせいもあり、ゴッホの不安な気持ちをあらわしているような絵画です。ニューヨーク近代美術館などで見ることができます。
自画像
自画像 – ゴッホ
ゴッホの自画像も複数ありますが、有名な自画像としては耳に包帯を巻いている絵と最後に書かれた絵です。ゴッホの自画像を見ていくと、その当時の彼の気持ちが色や筆づかいでよくわかります。耳に包帯を巻いている絵はロンドンのコートールド・インスティテュート・ギャラリー、最後に書かれた絵はパリのオルセー美術館にあります。
自分の情熱のままに多くの絵画を残したゴッホの本物の絵の多くは、ヨーロッパの美術館にあります。日本で見ることはあまりできませんが、何年かに一度、「特別展」などで目にすることができます。図工や美術の教科書を見ているのとは違い、本物の絵を見ると雰囲気も全く違いますよ。私も一度だけ本物を見たことがあるのですが、これまでのゴッホの絵画の印象がガラリと変わりました。
ゴッホはこんな言葉を残しています。
「すばらしい絵画を制作するのは、ダイヤモンドや真珠を見つけ出すのと同じくらい難しい。困難や苦労を覚悟して、命もかけなければ成し遂げることができない」
ゴッホと関係がある画家:ゴーギャン

 

ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin) http://seiki2211.shop/1467-2/
g01 (2) g02 (2)

 

後期印象派
1848年6月7日‐1903年5月8日
ゴーギャンというと、タヒチを題材としたひらべったい絵の具の塗り方の絵画を思い浮かべる人も多いでしょうね。これらの絵画はゴーギャンが晩年に多く描いたものです。また、ゴッホともめたことがある人、ということで知っている人もいるかもしれません。ゴーギャンの絵画とともに彼がどんな人なのかを知ると、他の画家とはちょっと違った画家人生を歩んでいたのを知ることができ、一層ゴーギャンの絵を楽しむことができるのではないでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ゴーギャンのプロフィール
ゴーギャンは1848年にパリに生まれましたが、彼が1歳のときに家族はペルーに移住しました。ゴーギャンは7歳までペルーで過ごしました。その後、おじいさんがいたフランスのオルレアンにもどります。
オルレアンという町は田舎にあり、活気があまりない町でした。色あざやかで亜熱帯のようなペルーとは全然違う環境に、ゴーギャンは不満をもっていました。町から早く出たいと思っていたゴーギャンは17歳で船に乗って働き出します。船から下りた後は証券仲介会社で働き出したのです。
このように見ているとゴーギャンは絵画を全く描いていないように見えますよね。そう、ゴーギャンは最初、趣味で絵を描く程度だったのです。
一時はピサロに絵画を教わりますが、ほとんどは独学で絵画を学んでいったのです。徐々に絵画を本業にしたいと思うようになったゴーギャンは、ある日会社を辞めてしまいます。しかし、ゴーギャンの絵は全く売れず、栄養失調になるほど貧しい生活を送るようになりました。
40歳になったとき、ゴーギャンはゴッホと出会い共同生活を送り始めますが、ゴーギャンもゴッホも個性が強すぎたために2ヶ月で共同生活は終わってしまいました。
この後、パリに戻ったゴーギャンは絵を描きつづけながら、ペルーのような暖かい土地で自由に生活することを夢みていました。1891年、ゴーギャンは当時フランス領だったタヒチに移住します。ゴーギャンは、タヒチで楽園のような生活を夢見ていたのですが、タヒチでも貧しい生活が続き2年でフランスに戻っています。
ゴーギャンの有名なタヒチを題材にした絵画の数々はこの後、再びタヒチに移住したあとに描かれたものがほとんどです。現在では傑作と呼ばれている絵画が描かれた時期の生活は、病気になっても病院にいけないほどでした。
ゴーギャンの絵画が売れるようになったのは彼がなくなる2年ほど前からでした。ゴーギャンは1903年54歳でこの世を去りました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ゴーギャンの絵画の特徴
ゴーギャンが本格的に画家として活動をし始めたのは、35歳頃からで他の画家と比べても非常に遅いスタートでした。初期のゴーギャンは、印象派の影響を強く受けています。ですが、印象派の手法にすぐに限界を感じて、新しい描き方を探しはじめたのです。後期印象派と呼ばれるスタイルを確立していきました。それからのゴーギャンは、エジプトや日本の版画に興味を持つようになりました。
タヒチで描かれた多くの絵画は、赤を多く使った明るい色をメインにして、平たんに色を塗り、神秘的です。原始的・神秘的な絵画を色で表現しているのが、ゴーギャンの絵画の特徴です。
ゴーギャンの有名な絵画
ゴーギャンの傑作といわれている作品は、ほぼ晩年の絵画ばかりです。どの作品でも、ゴーギャンの特徴である大胆な色づかいと平たんな塗り方、りんかく線を見ることができます。
我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか
我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか – ゴーギャン
なんとこの絵画は横幅が3.75mもあります。ゴーギャンが人生の中で一番つらい時期に描かれました。ゴーギャン自身の苦しみや問いかけがこの1枚にこめられています。この絵画は3つの意味がこめられています。右から左にその思いを読むことができるのです。そのため、絵画のタイトルもとても長いものになっているのです。ボストン美術館で見ることができます。
自画像
自画像 – ゴーギャン
ゴーギャンも何枚かの自画像を残していますが、その中でももっともインパクトのある自画像が1889年に描かれた絵画でしょう。真っ赤な背景に黄色い服を着たゴーギャンが宗教的象徴とともに描かれています。あなたはゴーギャンの顔写真を見たことがありますか?この自画像は特徴がありますが顔はそっくりです。
ゴーギャンもまたゴッホのように、生きている間になかなか認められない画家でした。しかし、ゴーギャンの絵画は現代美術に大きな影響をあたえたのです。ゴーギャンはこんな言葉を残しています。
「深い感情はそのまま表現することができる。それを想像して、最も単純なかたちを見つけ出すのだ」
ゴーギャンと関係がある画家:ゴッホ、ピサロ

 

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec) http://seiki2211.shop/1469-2/
l01 l02 l03

 

 

 

後期印象派
1864年11月24日‐1901年9月9日
「ロートレック」と聞いても、だれなのかすぐに思い出せないかもしれません。でも、ロートレックが描いた絵やポスターを見たら「これ、知ってる!」「見たことがある!」という人が多いでしょう。ポストカードで見たことがある人もいるかもしれません。オシャレなポスターや絵画は19世紀の作品だとはとても思えません。現代でも「オシャレ」だと感じるのではないでしょうか。絵画だけでなく、ポスターや挿絵も多く描き続けたロートレックってどんな人なのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ロートレックのプロフィール
ロートレックは、1864年にフランスのアルビというところの裕福な貴族の子供としてうまれました。うまれつき骨が弱かったロートレックは、12歳と13歳の2度にわたって足を骨折し、それ以降下半身の成長がとまってしまいます。童顔だったこともあり、ロートレックは大人になっても子供のように見えたといいます。14歳の頃には絵画を始めるようになり、パリに移り住み、本格的に絵画の勉強をしました。
パリでロートレックがとても気に入っていたのはナイトクラブでした。夜更かしをし、飲んで食べてしゃべって、そして絵を描く…そんな生活を繰り返していたのです。ロートレックの絵画やポスターにナイトクラブを描いたものが多いのはそのためです。
たくさんのポスター画を描いていたのですが、30歳くらいからロートレックは病気にかかり、さらに飲み過ぎで体調を崩すようになります。35歳には幻覚を見るほどになり、入院するようになりました。
ロートレックはそこでも絵を描き続けたのですが、治ることなく1901年に36歳でこの世をさりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ロートレックの絵画・ポスターの特徴
ロートレックは他の画家たちと違い、油絵以外にポスターや雑誌の挿絵を多く描いています。どちらかというと、ポスター画の方が今では有名です。
19世紀のポスターは、紙に絵を描いて印刷していたのではなく、石版に描いて印刷していたのです。今のようにたくさんの色を使わず、ロートレックは3~4色しか使っていませんでした。少ない色と単純に見える線でユーモアたっぷりの絵に仕上がっています。
ロートレックの絵画は、下描きをせずにいきなり描いた風刺画のようにも見えます。でもロートレックは1枚のポスター画を仕上げるのに、何枚ものデッサン(下描き)をして描いているのです。確かにロートレック自身の画風を生かして即興で描いた漫画風の自画像ものこされています。
ロートレックが描く油絵は印象派に近いものがあります。ただ、風景ではなくナイトクラブのにぎやかな様子を人物たちとともに描いていることが多いです。油絵もポスター画もロートレックの考えられた構図やユーモアさがこめられています。
ロートレックの有名な絵画・ポスター
ロートレックはとにかくナイトクラブを題材にした絵画を多く描いています。有名な絵画やポスターのほとんどがそうですが、それぞれ違う雰囲気があります。
ムーラン・ルージュ:ラ・グーリュ
ムーラン・ルージュ:ラ・グーリュ – ロートレック
ムーラン・ルージュとはロートレックが気に入っていたナイトクラブの名前です。この店から依頼されて描いたのが、このポスターです。1891に描いたこのポスターにより、ロートレックは有名な画家としての地位を手に入れました。簡単に描かれたようにも見えますが、このポスターもデッサンを描いています。ロートレックのうまれ故郷アルビのトゥールーズ=ロートレック美術館に展示されています。
ムーラン・ルージュに入るラ・グーリュ
ムーラン・ルージュに入るラ・グーリュ – ロートレック
これは油絵で描かれていますが、やはりムーラン・ルージュを舞台にして書かれています。モデルになっているラ・グーリュはムーラン・ルージュの人気ダンサーでした。ロートレックはこの人を良く描いています。ニューヨーク近代美術館にあります。
ムーランルージュにて
ムーランルージュにて – ロートレック
右側の緑色になった女性の顔のインパクトがある絵画です。これもムーラン・ルージュの情景が描かれています。店のライトに照らされている女性を描くことで、店のあやしげな雰囲気が伝わってきそうです。この右側の女性はあとからロートレックがキャンバスをつけたして描いています。この顔があるのとないのとで絵画の印象もがらりと変わりますよね。実はこの絵の奥に描かれている小さな男性がロートレック自身です。アート・インスティテュート・オブ・シカゴにあります。
ロートレックは常にスケッチブックを持ち歩き、人や情景の一瞬のしぐさや様子を素早く描きとめていました。ポスターや絵画にも一瞬のしぐさや様子がユーモアたっぷりにきりとられているんです。そこがロートレックの絵画がいきいきしている要因のひとつなのでしょう。

 

ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat) http://seiki2211.shop/1471-2/
s01 (1) s02 (1) s03 (1)

 

 

 

新印象派
1859年12月2日‐1891年3月29日
印象派の絵画の技法を更に進化させて、点描で絵を描く手法を完成させた人として有名なのがスーラです。「スーラ」という名前を聞いたことがないかもしれません。でも、点だけでかかれた絵を見たことがある人はいるかもしれません。珍しいので、もし点でかかれた絵を見たことがあるのならば、それはおそらくスーラの作品でしょう。スーラの点描画は簡単そうで、とてもむずかしいものなんですよ。(私、真似したことがあるのですが大失敗しました)

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

スーラのプロフィール
スーラは1859年、パリのかなり裕福な家に生まれました。スーラはハンサムで、落ち着いていた上品な人だったといいます。そして何よりもスーラは秘密主義で有名でした。
スーラは画家を目指すようになってからも、他の画家とは違い、家からの仕送りがあったので生活に困ることはありませんでした。
スーラは自分の画法を研究しつつ、1880年から白黒のデッサンに力を入れるようになります。1883年には、デッサンがサロンに入選し、絶賛されます。この時代のスーラの絵はまだ点描画ではありませんでしたがが、次の年の1884年にサロンに落選してから絵画の描き方が変化し始めます。点描で絵を描きはじめたのです。
点描は、非常に時間と根気が必要なものでしたが、スーラはていねいに描き続けました。この点描画がスーラを一気に有名にしたのです。
そんなスーラは30歳で結婚して、子供もいたのですが、このことを自分の親にも秘密にしていました。結婚していることを親に伝えたのは、彼がなくなる2日前だったといいます。スーラの画家仲間たちは当然、結婚して子供がいることを知ったのは、彼の死後で相当に驚きました。スーラは、1891年31歳という若さでこの世をさりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
スーラの絵画の特徴
スーラの点描画は印象派とは分けられ、『新印象派』や『点描主義』と呼ばれています。線や色をぬって絵画を完成させるのではなく、さまざまな小さな色の点を並べて描くのが点描画とよばれるものです。
スーラの絵画のすごいところは、たくさんの点が『人が見ると目の中で色が混ざって見える』という『視覚混合』という理論を実践していることです。
あらかじめ、パレットの上で絵の具の色を混ぜてしまうと色のあざやかさがなくなってしまうので、スーラは原色のまま点でキャンバスにのせていったのです。
原色のあざやかさを保った点描画を人が見ると、目の中で色が混じりあって見えるのです。スーラは絵画を科学的な面から制作した人なのです。スーラの絵を遠くから見ていると、まるで塗っているかに見えますし、人物のりんかくを線で描いているようにもみえます。ですが実際近づいてみると点描で、りんかく線はありません。
また、スーラは1枚の絵を描きはじめる前に、絵画の全体の構図や配置、デッサンを細かく何度も考えぬいて絵画を制作しています。現在も習作が残されています。
スーラの有名な絵画
点描画という時間のかかる技法と画家としての活動期間が12年間しかなかったことで、スーラの残した絵画はあまり多くありません。そして大きな絵も残されています。
アニエールの水浴
アニエールの水浴 – スーラ
この絵画がサロンに落選したことをきっかけにして、スーラは本格的に点描画を描くようになりました。この絵ではまだ点描で描いていません。ナショナル・ギャラリーにあります。
グランド・ジャット島の日曜日の午後
グランド・ジャット島の日曜日の午後 – スーラ
スーラの絵画の中で一番有名な絵画です。横2mたて3m以上の大きな絵画ですが、全て点で描かれています。おだやかで優雅な様子があざやかに描かれています。まるでりんかく線があるようにはっきりと描かれていますよね。これも近くで見ると線は描かれていないことがわかります。スーラはたくさんの人を描いていますが、これ以前に誰もいない島の絵も残しています。アート・インスティテュート・オブ・シカゴにあります。
サーカス
サーカス – スーラ
このサーカスという絵画はスーラがなくなってしまったので未完成のままです。黄色と赤を中心とした華やかなサーカスを表現しています。いかにスーラが色調のバランスを考えて描いていたかがわかる絵画です。オルセー美術館にあります。
スーラの後、点描画は時間がかかることもあり次第に離れていきました。ですが、現代のモダンアートの原点ともいわれるスーラの絵画は現在も高く評価されています。

 

アンリ・ルソー(Henri Rousseau) http://seiki2211.shop/1474-2/
r01 (3) r01 (3) r03

 

 

 

その他
1844年5月21日‐1910年9月2日
色あざやかな緑のジャングルの絵画で有名なルソーは、この時代の印象派や新印象派などのどの流派にも当てはまらない独特の絵を描き続けた人です。素朴でありながら、見ている人を不思議な気分にさせる絵画を描いています。ルソーの絵画には彼の性格があふれているのです。純粋に絵をかくことを楽しみつづけたルソーは、その絵を見ている私たちまで楽しくて不思議な気持ちにさせてくれますね。そして、なんとルソーは独学で絵を描いていたのです!そんなルソーとは、一体どんな人だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ルソーのプロフィール
フランス北西部のラベルという町に中世にたてられた塔があり、ルソーは1844年にその塔の中で生まれました。
ルソーの家は貧しく、ルソーは高等教育を受けることができませんでした。ラベルの町で数年間仕事をした後、ルソーは24歳でパリにでます。
ルソーはパリの税関で25年間働き続けます。ルソーは税関を辞めるまで「日曜画家」として絵を描き続けたのです。他の画家と違い、ルソーは独学で絵画を学びました。ルーブル美術館で許可をもらい、休みのたびに模写をくりかえし絵画を学びました。また、緑の自然もたくさん観察していました。これが後のルソーの絵画に大きく影響しているのです。
ルソーは、自分の才能を信じて独学で絵を描き続けました。初めてルソーが画家としてデビューしたのは、1885年のアンデパンダン展です。しかし、ルソーの才能は誰も認めず、ルソーの絵画を見て「この絵は誰もが子供のころに描いて喜んでいた絵だ」と笑っていたのです。
そんなことにも負けずにルソーは絵画に専念するため、1893年49歳で税関の仕事をやめてしまいます。彼を認めてくれたのは、ピカソやゴーギャンといった新しい画家たちだけでした。人を疑うことを知らず、素朴な人柄のために、ルソーは事件に巻き込まれたこともありました。
生きている間、ルソーの絵画は一部の画家たち以外に認められることはありませんでした。ルソーは世間に認められることなく、1910年にこの世をさりました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ルソーの絵画の特徴
非常に特徴のある絵を描いたルソーは、自然が好きで緑をよく描いています。その他にもルソー独特の絵画の特徴があります。
ジャングル
自然が好きだったルソーの絵画にはジャングルや緑がたくさん出てきます。ジャングルや動物を描いた作品のほとんどは、南国のジャングルを実際に見たわけではなく、熱帯植物園で見た植物を元にルソーの空想で描かれています。ルソーはこのジャングルの密林を描くにあたり、何十色もの緑色を使い分けているのです。
人物の描き方
ルソーの描く人物はとても特徴的です。ほとんどが真正面か真横を向いて、目鼻も同じように描かれています。人物の向きや顔を見たらすぐにその絵を描いたのがルソーだとわかるほどです。この描き方が批評家たちにとっては下手に見えたのでしょう。
ルソーの有名な絵画
印象深い絵画を残しているルソーの中でも一度見たら忘れられないほどのインパクトがあり、有名な絵画を紹介しましょう。教科書にも載っているので、覚えている人も多いのではないでしょうか。
眠れるジプシー女
眠れるジプシー女 – ルソー
ルソーの絵画でもっとも有名な作品といってもよいでしょう。砂漠の真ん中で眠る女性とそばにいるライオンと、空にうかぶ白い月がとても神秘的に表現されています。女性が着ている服の模様はカラフルなのに、とてもバランスがとれています。この作品は、ルソーが生きている間には評価されず、1923年にパリの配管工の作業場で発見されました。現在はニューヨーク近代美術館にあります。
私自身、肖像=風景
私自身、肖像=風景 – ルソー
ルソーの自画像です。これは、パリで開かれた万国博覧会が強烈に印象に残ったルソーが博覧会の閉幕後に描いた自画像です。後ろに博覧会の様子がみえます。ベレー帽にパレットを持ったルソーの自画像は「自分は芸術家だ」と主張しているようにも見えますね。プラハの国立美術館にあります。

夢 – ルソー
ルソー最後の作品です。暗いジャングルの中にいる動物と女性、そして周りを囲む不思議な花たちが印象的です。ジャングルなのに、長いすがあるというのも不思議な感じがしますよね。ルソーはこれについて「長いすに横たわって眠っている女性は、この森に運ばれて、魔法使いの音楽を聴いている夢を見ているのです」と語っています。タイトルどおり夢の中の作品なのです。ニューヨーク近代美術館にあります。
見ている人を不思議で幻想的な世界に連れて行きそうなルソーの絵画は立体感があまりありません。ですが、細かく描かれた植物やジャングルにルソーの作品への愛情を感じることができそうです。
ルソーと関係がある画家:ピカソ、ゴーギャン

 

パブロ・ピカソ (Pablo Picasso) http://seiki2211.shop/1476-2/ ‎
p01 (1) p02 (1) p03

 

 

 

キュビズム
1881年10月25日‐1973年4月8日
ピカソは20世紀の画家ですが、近代絵画を語る上ではずせない画家です。「知っている有名な画家は?」と聞かれたら多くの人が「ピカソかゴッホ」と答えるくらい有名な画家です。ピカソの絵は、年齢によって大きく変化しています。一般的に良く知られているピカソの絵は「キュビズム(キュビスム)」と言われています。ピカソは上手なのか下手なのかよくわからないという人も多いのではないでしょうか。でも、ピカソの絵を順番に見ていくと、これまでの印象とは大きく変わるはずです。ピカソは一体どんな画家だったのでしょうか。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ピカソのプロフィール
ピカソの本名はとっても長いということを聞いたことがあるかもしれません。ピカソの本名は本人も覚えきれず、いくつかの説があります。
うまれ故郷であるスペインのマラガ市役所にある出生届には『パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ』と書かれています。先祖の名前や神聖な名前をつなげて名づけられているのです。
実は『ピカソ』という名字は母方の名字です。父方の名字である『ルイス』はピカソが生まれたマラガでは、よくある名字だったので、途中でピカソ姓を名乗るようになりました。
天才と呼ばれるピカソは幼いときから、絵画の特別な才能がありました。ピカソの父親も画家だったのですが、ある日まだ8歳だったピカソにリンゴの絵を描かせました。ピカソが描いたリンゴの絵はとても上手で、画家であった父親は自分で絵を描くことをやめてしまったほどです。そのあまりの才能に本格的な絵を勉強するために、ピカソ一家は彼が14歳のときにバルセロナに引っ越します。
バルセロナの美術学校に入学し、そこで伝統的な絵画の技法を学びます。しかし、この伝統的な画法はピカソにあわず、数年で中退してしまいました。
1900年には、初めてパリに行き、そこでロートレックの絵画に出会い、影響を受けました。多くの友人とともに刺激的な日々を過ごしていましたが、この当時のピカソはまだ無名で貧しい生活を送っていました。
ここで出会った友人の死をきっかけにピカソの画風は大きく変わります。
1904年、暗い絵画を描いていたピカソの画風が大きくかわります。オリビアという恋人ができたのです。そしてここからピカソのびっくりするくらいの恋愛歴がはじまります。この頃に描いた絵はよく売れ、ピカソは有名な画家になっていきました。
1907年ごろからパリではアフリカ彫刻が流行りはじめ、ピカソも影響を受けます。アフリカ彫刻をモチーフにした作品を作っています。その一方で、キュビズムの絵を描くようになりました。
キュビズムの絵画に変化していったのは、新しい恋人エヴァ(本名はアンベール)の存在です。キュビズムの絵画を見た画家のブラックは、ピカソとともにキュビズムを追求していくようになりました。しかし、1914年に第一次世界大戦が始まるとブラックは入隊し、ピカソとの共同生活が終わってしまいました。
さらに1915年には恋人のエヴァが病気でこの世を去ってしまい、ピカソは一人になってしまいます。
そんな寂しい思いをしていたピカソをローマに連れだしたのがコクトーという人です。コクトーはピカソをバレエの舞台装置や衣装を担当させ、ピカソに元気を取り戻したのです。そして、ピカソはこのバレエ団のメンバーだったオルガという女性と出会い、結婚します。
オルガはピカソを社交界のつれていき、華やかな生活を送り始めます。そして1921年には息子のパウロが生まれました。しかし、1920年代の後半からは、オルガとの生活がうまくいかなくなります。ピカソはアトリエに閉じこもり、挿絵を多く描くようになりました。
ピカソが46歳のとき、17歳のマリー=テレーズ・ワルテルという女性を出会い、付き合い始めます。ピカソはオルガと離婚できずに長い別居生活が始まります。
マリーは1935年にマヤという女の子をうみます。ピカソはマヤがうまれた後にドラという女性と付き合いはじめます。
1936年からのスペインでの内乱をきっかけに、ピカソは1枚の絵を描きます。攻撃された町の名前を、そのままタイトルにした有名な『ゲルニカ』です。
ピカソは1943年に21歳の女性画家フランソワーズと付き合い、1945年にドラと別れました。フランソワーズと付き合っていたときのピカソは、絵画を制作しつつ、陶器もつくっていました。
フランソワーズとの間にはクロードとパロマという2人の子供がいたのですが、フランソワーズは1953年に子供をつれて出て行ってしまいます。
一時はショックを受けたピカソですが、またすぐに別の女性ジャクリーヌと付き合いはじめ、2度目の結婚をします。
ジャクリーヌとの結婚後のピカソは、ドラクロワやマネなどの巨匠の作品のアレンジや、銅板画を多く制作するようになりました。そして1973年にこの世を去ったのです。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ピカソの絵画の特徴
長生きしたピカソは、時代によって絵画の雰囲気が全く違います。ピカソの絵画は特徴ごとにそれぞれ分類されています。
『青の時代』のピカソ(1901~1904年)
1901年、友人の一人がこの世を去ってしまいます。とてもショックを受けたピカソは、貧困や孤独、絶望をテーマにした冷たい青色を多くつかった絵画を制作するようになりました。この時期に描かれた絵画は『青の時代』と呼ばれています。
『ばら色の時代』のピカソ(1904~1907年)
暗い『青の時代』から急に明るい色調の絵画を描きだしたきっかけは、恋愛でした。ピカソは1904年にオリビアという女性と出会い、付き合い始めます。サーカスや旅芸人を題材にした明るく、にぎやかな絵画を描いています。
キュビズムの時代(1907~1916年)
ピカソの絵画と聞いて思い浮かべるのは、このキュビズムの時代の絵画でしょう。カラフルな色彩に変形している人や動物を描いています。この時代のピカソの絵画を見た人は「ヘタ」と思う人も多いでしょう。キュビズムは決して抽象画ではなく、概念として世界を描いたものなのです。
新古典主義の時代(1918~1925年)
ピカソは、キュビズムの絵画をずっと描いていたわけではありません。この時代はゆったりとした人物をイキイキと描いています。人物たちの形もまるくなっているのが特徴です。
シュルレアリスムの時代(1925年~)
この時代から晩年にかけてのピカソの作品はシュルレアリスムの手法だけではなく、様々な手法を取り入れています。キュビズムの名残もあり、独自の絵画をうみだしていったのです。
ピカソの有名な絵画
ピカソの絵画はどれも有名なものばかりで、一生の間に13,000点の絵画、100,000点の版画、34,000点の挿絵、そして300点もの彫刻を制作しています。一日あたり2~3枚以上のペースで絵画や版画を制作していた計算です。そのなかでも特に有名な絵画を紹介しますね。これらの絵画は覚えておくことをオススメします。
シュミーズ姿の少女
シュミーズ姿の少女 – ピカソ
この作品は、青の時代に描かれたもので、何か考え事をしている少女の表情が印象的です。背景は暗い青が塗られていて、見ている人を不安な気持ちにさせます。ここに描かれている少女は平たく描かれていて、ピカソのキュビズムへの変化も見ることができます。ロンドンのテイト・ギャラリーにあります。
アヴィニョンの娘たち
アヴィニョンの娘たち – ピカソ
伝統的な遠近法が使用されず、人物も断片的にですが分解されています。アフリカの部族の仮面をつけた女性も描かれていて、アフリカ彫刻に興味をもっていたこともわかります。この作品がキュビズムの基礎となる作品です。ニューヨーク近代美術館にあります。
ゲルニカ
ゲルニカ – ピカソ
白と黒、グレーだけで描かれているモノクロの作品です。これは、1937年にドイツ軍がピカソの故郷スペインを攻撃したことに対する抗議として描かれた作品です。たて3.5m横が7.8mもある巨大な絵画です。恐怖や暗黒、人の残酷さが描かれています。この巨大な絵画をピカソは、攻撃のニュースを聞いてから20日程度で完成させました。現在はスペインの首都マドリードにある国立ソフィア王妃記念芸術センターで見ることができます。
ピカソの絵画で特に印象深いのが、キュビズムの時代です。そのため、ピカソの絵が難しすぎてよくわからないという人や下手な絵なのになぜか有名な画家、と思っている人も多いのは確かです。
ですがピカソの絵画の時代の移り変わりを見ていくと、ピカソはまさに天才だと実感できるはずです。私も昔はピカソの絵は下手なんじゃないかと思っていました。スペインのピカソミュージアムでピカソの絵画を見たとき、その考えは「ピカソはすごい人なんだ!」と変わりました。子供の頃にピカソが紙切れに軽く描いたものも展示されていたのですが、ものすごく上手です。目で見たものをそのままに描くのは、ピカソにとっては当たり前のことだったのでしょう。だからこそ、キュビズムに変化していったのではないかと私は感じました。
ピカソの絵画は、全て考え抜かれて描かれているのです。ピカソはこんな言葉を残しています。
「なぜ自然を模倣しなければならないのか?それくらいなら完全な円を描こうとするほうがましなくらいだ」

 

ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacquew-Louis David) http://seiki2211.shop/1478-2/
d01 (2) d02 (2)

 

新古典主義
1748年8月30日‐1825年12月29日
「ダヴィッド」という画家の名前をいきなり言われても、すぐに思い出せない人が多いのではないでしょうか。ですが、「ナポレオンが馬に乗っている絵を描いた人」といえば知っている人がいるかもしれませんね。フランスの激動の時代を生き、その様子を絵にかきつづけたダヴィットという人はどんな人だったのでしょうか。ナポレオンともつながりのあった彼の人生について勉強してみましょう。

[ スポンサードリンク ]

【19世紀絵画教室 – 子ども美術館】トップページへ戻る

ダヴィッドのプロフィール
1748年、パリの商人の子供としてダヴィッドはうまれました。ダヴィッドの親戚には有名な画家もいたため、幼いころから絵画への興味があったようです。
ダヴィッドの画家の先生はヴィアンという人で、その人の下で長い間修行をしていました。ダヴィッドが画家としてデビューしたのは、26歳と遅い時期でした。このデビューした作品でローマ賞をとり、その副賞としてイタリア留学がありました。
ダヴィッドはイタリアで5年間古典絵画について学びます。この留学をきっかけにダヴィッドは新古典主義の画風へと変化していきました。ダヴィッドはすぐに画家として認められていたので、1784年からは国王から注文された絵画を描いています。
フランス革命の直前に、ダヴィッドは政治にも関わるようになっていました。フランス革命がおき、その後の政治に大きな力を発揮するようになりました。
革命政府の美術行政を担当したダヴィッドは全国に美術館を作るように働きかけていました。革命政府がたおれたときは一時期投獄もされました。妻の力によってダヴィッドは自由の身になり、今度はナポレオンに絵画を依頼されました。
ナポレオンが失脚した後、ダヴィッドは亡命し、亡命先のブリュッセルで1825年にこの世を去りました。
画家名で探す?
コンスタブル
ミレー
コロー
クールベ
モロー
クリムト
ターナー
ドラクロワ
ジェリコー
ゴヤ
ミレイ
ハント
ロセッティ
ウォーターハウス
マネ
ドガ
セザンヌ
ルノワール
モネ
ピサロ
ゴッホ
ゴーギャン
ロートレック
スーラ
ルソー
ピカソ
ダヴィッド
ダヴィッドの絵画の特徴
ダヴィッドは英雄を好んで描き、またギリシャやローマ時代の古典を好んで絵画にしていました。ダヴィッドは新古典主義の代表的な画家なのです。人物の描写は簡潔でいて写実的なのですが構図や表現は、より英雄に見えるように強調して描いています。そのため、時々描かれている人物たちの動きは芝居がかっているようにも見えるのです。人物の細かい描写は伝統的な手法が使われつつ、描いている題材は英雄というのがダヴィッドの絵画の特徴なのです。
ダヴィッドの有名な絵画
ナポレオンを描いた作品のほかに古代ギリシャやローマの有名なシーンを描いた作品も多く残っています。
サン・ベルナール峠のナポレオン
サン・ベルナール峠のナポレオン – ダヴィッド
ダヴィッドの名前を知らなくても、この絵画を見たことがある人は多いでしょう。ダヴィッドの代表作です。ナポレオンがイタリアに向かう途中のアルプスでの様子を描いているのですが、実際、ナポレオンはラバという動物に乗って移動していたようです。しかし、ラバよりも白馬に乗っているほうが英雄らしいということで、ダヴィッドは馬を描いたともいわれています。マルメゾン宮殿にあります。
ホラティウス兄弟の誓い
ホラティウス兄弟の誓い – ダヴィッド
フランス国王だったルイ16世が注文したダヴィッドにとっての最初の国王からの注文絵画です。古典的なシーンが描かれているのですが、ここには市民の義務と自己犠牲をたたえようとしているダヴィッドの考えが表現されているのです。ルーブル美術館にあります。
フランス革命がおこった激しい時代のうつりかわりの中で、ダヴィッドは画家としてだけでなく、政治にも関わった画家でもありました。描かれている絵は古典的なものですが、その中でダヴィッドが伝えたかったことは、ダヴィッド自身の信念でもあったのでしょう。