ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-Francois Millet)
写実主義 バルビゾン派
1814年10月4日‐1875年1月20日
『農民画家』として、農民の生活風景を描き続けた画家として有名なミレーの名前を聞いたことがある人、作品を教科書などで見たことがある人も多いでしょう。少しさびしそうで、暗い色が印象的な絵が多いのがミレーの絵ですよね。農民の姿とその情景を描きつづけたミレーの絵画は、ミレーの生きてきた人生をよくあらわしています。ミレーという画家は一体どんな人だったのでしょうか。有名な作品を数多く残しているミレーについて勉強してみましょう。
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ミレーのプロフィール
1814年フランスノルマンディー地方の農村にミレーはうまれました。海の近くの村でしたが、崖が多く漁業には向いておらず農業が中心の村でした。
ミレーの家は裕福ではありませんでしたが家には本が多く、ミレーはたくさんの本を読んでいました。ミレーは18歳までうまれ故郷で父の農作業の手伝いをしていました。
本格的に絵画の勉強をはじめたのは19歳で、シャルブールという町の画家のもとで絵の修行をはじめます。
絵画の才能があったミレーは22歳でパリの国立美術学校のアトリエに入門しました。しかし、パリになじめなかったミレーは、1839年24歳で美術学校を中退してしまいます。この2年間の学生生活の中でミレーの心の支えとなったのはルーブル美術館に行くことでした。ここで、昔の巨匠の絵画を見て学んでいたのです。
1840年にはサロンに入選したのですが、それ以降の3年間は落選し続けました。1841年に結婚した妻も病気がちで1844年になくなってしまったのです。
ミレーはショックで一度故郷に戻り、そこでカトリーヌと出会います。カトリーヌと再婚したいとミレーは考えていたのですが、二人の仲はみとめられませんでした。そのためにミレーとカトリーヌはかけおち同然に再びパリに出たのです。
パリでの生活もやはり苦しいものでした。ミレーは生活のために描きたくもない肖像画を描いて、どうにか生活していたのです。そんなミレーを支えていたのがカトリーヌだったのです。
ようやくミレーが世間に認められるようになったのは、1848年の無監査で開催されたサロンに出品した『小麦をふるう人』が絶賛され、政府が買い取った初めての作品となりました。
しかし、世間はミレーを裸体画ばかり描く画家と噂し、屈辱に感じたミレーは農民の中に生活しながら絵画を描こうと決心します。そして、家族でバルビゾンへと引っ越したのです。
バルビゾンでのミレーの生活は、午前中は畑を耕し、その後絵を描いていました。農業をしつつ、次々と農民画を描いていきました。40代になってもミレーの生活はまだまだ安定していませんでした。農民の生活の苦しい状況をリアルに表現したため、敬遠されてしまっていたのです。
ミレーの評価が高くなったのはフランスではなく、アメリカでした。アメリカでミレーの絵画は絶賛され、ミレーは46歳でようやく貧困から抜け出せたのです。ミレーは1875年、長年住んだバルビゾンで家族に看取られながらこの世を去りました。
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ミレーの絵画の特徴
多くのバルビゾン派と呼ばれる画家たちは風景をメインとし、人物も風景の一部として描いていました。しかし、ミレーは逆で人物をメインとして風景は細かく描きこむことをあまりしなかったのです。
また、ミレーは農民画を描くとき、逆光になっているものが多くありますよね。正面から光が当たっていません。これは人物をより立体的に表現する効果があるのです。人物を立体的にそして強調するために背景があまり描かれていないのが、特徴的です。
ミレーの有名な絵画
フランスよりもアメリカで高く評価されたミレーは、アメリカから日本へも紹介されました。農業が主要だった日本人にとってミレーの絵画は親しみのあるものでした。そんなミレーのぜひ知っておいてもらいたい作品を紹介しましょう。
種撒く人

ミレーがバルビゾンに移住して制作した最初の絵画です。背景が簡略化され、手前の人物が強調されています。この題材は、キリスト教でイエスを「種撒く人」として表現したことを根拠にしています。実は『種撒く人』は2つあるのです。1つはボストン美術館にあり、もう1つは山梨県立美術館にあります。構図もほとんど同じなのですが、絵の具の塗り方が微妙に違っています。