朝鮮の歴史

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「朝鮮史」はこの項目へ転送されています。朝鮮総督府が編纂した歴史書については「朝鮮史 (歴史書)」をご覧ください。

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朝鮮の歴史
考古学
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 AD
伝説
檀君朝鮮
史前

箕子朝鮮

 

辰国
衛氏朝鮮
原三国
辰韓
弁韓
漢四郡
馬韓
帯方郡
楽浪郡



三国

伽耶
42-
562
百済
346-660
高句麗
前37-668
新羅
356-
統一
新羅

唐熊津・安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国
新羅
-935

百済
892
-936
後高句麗
901
-918

女真
統一
王朝
高麗 918-

元遼陽行省
(東寧・双城・耽羅)
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代
日本統治 1910-1945
現代
連合軍軍政期 1945-1948
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国
1948-
朝鮮の君主一覧
大韓民国指定国宝
中国朝鮮関係史
Portal:朝鮮
朝鮮の歴史(ちょうせんのれきし)では、朝鮮および朝鮮半島における歴史を述べる。

目次  [非表示]
1
概説
2
先史時代・古朝鮮時代
2.1
先史時代
2.2
古朝鮮時代
3
古代の朝鮮半島
3.1
衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代
3.2
三国時代
3.3
統一新羅時代、或いは南北国時代
3.4
後三国時代
4
中世の朝鮮半島
4.1
高麗
5
近世の朝鮮半島
5.1
李氏朝鮮
6
近代
6.1
大韓帝国
6.2
日本統治時代
7
現代
7.1
連合軍軍政期
7.2
朝鮮戦争
7.3
大韓民国
7.4
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)
8
脚注
9
参考文献
10
関連項目

概説[編集]
朝鮮半島では、石器などの発見から、数万年前から人が住んでいたと思われるが、現在の朝鮮民族との繋がりは明らかでない。約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで東シナ海の大部分は陸地であり、日本列島と陸続きだったが海面上昇により切り離され、紀元前4000年ころまで海進は進んだ。
紀元前4000年頃に櫛目文土器が出現する。櫛目文土器はウラル系民族、とりわけフィン・ウゴル系民族と関連しており、最古のものが遼河地域の興隆窪文化(紀元前6200年-紀元前5400年)の遺跡で発見されている[1]ことから、遼河文明の担い手であるウラル系民族が朝鮮に櫛目文土器をもたらしたことが考えられる。よって朝鮮民族の基層はウラル系民族の可能性がある。
紀元前4000年頃から南部・西部で陸での稲作が始まったとする意見もあるが、証拠となる物は見つかっていない。
朝鮮半島において学術的な検証が可能となる最初の国家は箕子朝鮮、ある程度実情が分かるのは衛氏朝鮮からである。箕子朝鮮が興った明確な時期は解らないが、史記等の記述や考古調査から前12世紀に殷王朝王族の箕子が朝鮮の地を治め始め、後に周王朝が侯国に封じたとする[2]。衛氏朝鮮は前194年に燕出身の将軍であった衛満が箕子朝鮮の王・準王を追い出して建国した[3]。衛氏朝鮮は三代衛右渠の時、漢の武帝に滅ぼされ、領地は楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡として400年間直轄支配(植民地ともいわれる[4])されたが、移転や廃止により最後は楽浪郡のみが残った。
4世紀中頃に、満州の鴨緑江付近で興った高句麗が南下して楽浪郡北部を征服、百済も楽浪郡や帯方郡の多くの部分を征服するが、4世紀末までに百済は高句麗により朝鮮半島半島北部から駆逐され、朝鮮半島北部は高句麗によって征服された。
南部は倭と関係の深い百済と新羅が在り共に倭に従属していたが、新羅は7世紀中葉に入って日本が白村江の戦により大陸での影響力を完全に喪失する以前も、度々朝貢を怠るなど叛服常無かった[5]。
高句麗は4世紀の広開土王の代に、仏教を篤信するとともに、南に領土を拡大し最盛期を迎える。その領土は満州南部から朝鮮半島北部にわたった。なお、高句麗を中国の地方政権とするか、朝鮮の歴史に含めるかについては議論がある(高句麗#歴史論争:高句麗の歴史帰属をめぐる問題)。
百済は371年、漢山城(今のソウル松坡区)を都としていたが、高句麗の攻撃により落城し、扶余に遷都した。また、高句麗とその属国である新羅に対抗するため、大和朝廷に従属し、儒教や仏教を大和朝廷へ伝えた。南端部には倭国の影響下にあって[6](旧説では「支配下」にあったとする[7])諸小国の雑居する任那加羅があった。
倭国が大陸での支配力を失うと伽耶は特定の国(金官伽耶・高霊伽耶など)が主導する形になったが、倭国への朝貢は途絶えることなく行われていた[8][9]後に諸国は西側が百済に併合され東部も新羅により滅ぼされた。高句麗や百済の支配層は扶余系とみられ、韓系である新羅人とは別系統の言語を話した。
一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語とされている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられる。
しかしながら、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避けるとき、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」などと、秦や六国からの居住者が建国したように、中国人や北方異民族の移住があり、新羅自身も『三国史記』によると4代目の王が倭国北東[10]から渡来した王であったり、『三国志東夷伝』によると馬韓(百済の前身)より辰韓(新羅の前身)へ代々王を遣わしていた記述があるなど、朝鮮民族としての意識の形成がいつ頃から生じたものか不明瞭である。新羅の後に興った高麗が高句麗継承を主張し、『三国史記』や『三国遺事』を編纂したことからすると、朝鮮民族としての民族意識の萌芽は高麗の時期に形成された可能性が高い。
7世紀に新羅は唐が高句麗、百済を相次いで滅ぼす戦いに参戦した。その後、新羅は唐を突如裏切って唐の行政府に駐留する部隊を殲滅する反乱を起こすと、朝鮮半島の大部分を統一した[11]。しかし唐・新羅戦争に敗北して、自らを大唐国新羅郡と名乗った。高句麗の故地にはツングース系の韃靼族とされる[12]大祚栄が渤海を建国した[9]が渤海を朝鮮の歴史で扱うか否かについては議論がある(東北工程参照)。10世紀に新羅は地方勢力が自立して後高句麗・後百済を立てて後三国時代を迎えるが、やがて新しく興って後高句麗を滅ぼした高麗が勢力を持ち、新羅を滅ぼして南北にわたる初の統一を成し遂げ、鴨緑江南岸と豆満江付近まで勢力を広げた。
高麗は13世紀にモンゴル帝国(元)の侵攻を受け支配下に入った。元の衰亡とともに失った独立と北方領土を回復したが、14世紀に元が北へ逃げると親明を掲げる女真族ともいわれる[13]李成桂が建国した李氏朝鮮(朝鮮王朝)が朝鮮半島を制圧し明に朝貢した。李氏朝鮮の全盛期には、女真族に対する侵略がたびたび行われた。遂には当時半島北部に勢力を持っていた建州女真の大酋李満住が戦死し、建州女真は李朝の支配下に入った。
朝鮮は15世紀4代国王、世宗の時、黄金期を迎える。世宗は訓民正音(ハングル:朝鮮語の文字)の制定、史書の編纂、儒学の振興などのほか、農業の奨励、対外的には倭館の設置、女真との戦争などで領土を拡張した。科学の振興も図られた。蒋英実などを重用し、天文観測機構の設置や、機器(渾天儀、簡儀)の製作、時間を表す仰釜日晷、自撃漏などを製作するなど、画期的な成果を挙げ、朝鮮の基礎を固めた。
16世紀に豊臣秀吉の侵攻を受け一時国土の大半を征服されるが、明の救援と李舜臣の活躍と秀吉の死去により国土を回復した。17世紀には女真族が建てた清の侵攻を受け、衆寡敵せず大清皇帝功徳碑を築くなどの屈辱的な条件で降伏して冊封体制・羈縻支配下に入った。
1776年に22代国王の正祖が即位する。正祖は即位初期には洪国栄などを重用し、当時、弱まり続けていた王権を掌握していく。当時の政権は老論という一派が大きな権力を持っていて王権を上回るほどの実勢を握っていた。正祖は王権を強化するため、政治の改革に着手し、蕩平策を標榜する。蕩平策は基本的に政治の人事がどこの政派にも偏らず、能力ある人物を登用することで、その裏には当時与党で、王権よりも強い政権をもっていた老論をけん制する狙いがあった。蕩平策を通して、疎外されていた政派の者や中人、庶子とその子孫さえ抜擢し登用した。蕩平策は老論をけん制する傍ら、政治的なバランスも崩れておらず、正祖の治世を一貫する政策だった。正祖の時期に、水原華城(世界遺産)の設計や建築に関わった丁若鏞や朴斉家、洪大容、柳得恭などが活躍した。正祖は農業の整備や商業の振興、北学派や実学派を重用し、いわゆる朝鮮の復興期を導いたが、1800年、正祖の死去と共に、改革の成果は消えていった。[14]
19世紀末から欧米列強が来訪、開国を要求、そして日本、清、ロシアが朝鮮半島の権益をめぐって対立、日清戦争後に結ばれた下関条約締結によって長きにわたる冊封体制から離脱し、1897年に大韓帝国(朝鮮から国号を変更)として独立するも、伊藤博文を安重根が暗殺し、1910年に全土が日本に併合された。第二次世界大戦での日本の敗戦に伴い、連合国軍によって朝鮮半島のほぼ中央を走る北緯38度線を境に南北に分割統治され、その後に各々独立、南に韓国、これに反抗する済州島は済州島四・三事件で鎮圧がなされ、北には北朝鮮が建国された。1950年に北側から赤化統一を目指して朝鮮戦争が起こるが、統一はならず現在も南北に2つの国家が並立しており、南北統一を如何に果たすかが両国間の課題となっている。
なお、李氏朝鮮末期から日本統治期、米ソ占領期、朝鮮戦争とその後の混乱期にかけて、様々な理由で清(中国)、ロシア(後にソ連)、日本など朝鮮半島外に相当数の人々が移住していき、在外韓国朝鮮社会が形成されていった。
先史時代・古朝鮮時代[編集]

高敞、和順、江華の支石墓群
先史時代[編集]
考古学的な実証ある事項はここに記す。また、考古学的知見は新事実の発見や分析の発展で変遷することがある。
詳細は「朝鮮の先史時代」を参照
旧石器時代
「ko:한국의 구석기 시대」も参照
公州石壮里遺跡
新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器) BC4000年(もしくは5000年) – BC1000年
早期 BC5000-4000
前期 BC4000-3000
中期 BC3000-2000
晩期 BC2000-1000
BC1500年ごろ、中国より農耕伝わる。
無文土器時代(BC1000年頃 – BC100年)
前期 BC1000-700
中期 BC700-300
BC700年ごろ、青銅器伝わる。
後期 BC300-100(初期鉄器時代)
BC300年ごろ、鉄器伝わる。
古朝鮮時代[編集]

箕子

紀元前数世紀ころの朝鮮半島
考古学的考証のない事項はここに記す。
大同江文化
北朝鮮では、5000年前に平壌を中心とした大同江流域で、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の世界四大文明に匹敵する「大同江文化」が栄えたとし、世界最初の古代文明は古代朝鮮を加えた「世界五大文明」だとしている。
檀君朝鮮(檀君神話)
檀君は神話上の人物。『三国遺事』に、『魏書』からの引用(ただし、現存する『魏書』にはそのような記述は存在しない)として、中国の堯帝時代に白頭山に降臨した天神の子・桓雄と熊女の間に生まれた檀君が平壌城で建国したと記されている。大韓民国(韓国)では檀君即位の年をB.C.2333年とし、それから年を数える「檀君紀元」(檀紀)という紀元も存在する。近年朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では、コンクリート製の檀君陵を復元しているが、その考古学的根拠は全くない。韓国人の宗教上の崇拝対象である。
箕子朝鮮(きしちょうせん、? – 紀元前194年)
中国の殷を出自[15]とする中国人の箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的な古代国家。韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ。首都は王倹城(現在の平壌)。『三国志』魏志書、『魏略』逸文などに具体的な記述がある。現在の韓国では後世の創作として否定しているが、中国では実在したと考えられている。『三国志』『魏略』および『後漢書[16]』には、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていたが、後に朝鮮王を僭称するようになったこと、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われたこと、箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略し、そこで韓王となったという。
辰国

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古代の朝鮮半島[編集]
衛氏朝鮮・漢四郡・原三国時代[編集]

紀元前1世紀頃の東アジア諸国と漢四郡
朝鮮半島では、中国から朝鮮半島を経由して日本列島にいたる交易路ぞいに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[17]。戦国時代、燕は「朝鮮」(朝鮮半島北部)、真番(朝鮮半島南部)を「略属」させ、要地に砦を築いて官吏を駐在させ、中国商人の権益を保護していた[18]。秦代は遼東郡の保護下にあった[19]。秦末漢初の混乱の中、復活した燕国は官吏と駐屯軍を中部・南部(清川江以南)から撤退させた。紀元前197年、漢朝は燕国を大幅に縮小して遼東郡を直轄化したが、その際、燕人の衛満が清川江を南にこえ、仲間ともに中国人・元住民の連合政権を樹立した。漢の遼東大守は皇帝の裁可をえてこの政権を承認し、衛氏朝鮮が成立した[20]。
衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? – 紀元前108年)
考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家。建国者から名乗って衛満朝鮮とも。中国の燕を出自[21]とする中国人亡命者である衛満が朝鮮半島北部に建国した。衛氏朝鮮は三代衞右渠の時の紀元前108年に漢の武帝に滅ぼされた。その故地には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の漢四郡が置かれ、中国王朝はおよそ400年もの間、朝鮮半島中・西北部を統治した。
原三国時代(BC108 – 2世紀中葉)
高句麗(吉林省・両江道・慈江道)
ツングース民族による国家[22]。
遼東郡東部都尉(平安北道)
楽浪郡(平安南道・黄海北道)
帯方郡(黄海南道。ただし、京畿道まで含むとする説もある。)
北沃沮(咸鏡北道)
東沃沮(咸鏡南道)
濊(ワイ)(江原道)
馬韓(京畿道・忠清北道・忠清南道・全羅北道・全羅南道。ただし、京畿道・忠清北道・忠清南道を含まないとする説もある。)
辰韓(慶尚北道・慶尚南道)
秦からの移民とする説もある[23]。古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という[23]。辰韓十二国があり、その中の斯蘆国が発展して、国家の態をなしたものが新羅と見られている。
弁韓(全羅南道・慶尚南道。ただし、全羅南道を含まないとする説もある。)
州胡(済州特別自治道)
三国時代[編集]

三国時代の朝鮮半島

新羅の冠

高句麗の系統は消滅したが、遺領は新羅(後の朝鮮民族の母体)と渤海(後の満州族の母体)に分割されている。
詳細は「三国時代 (朝鮮半島)」を参照
433年 羅済同盟
612年 隋の高句麗遠征
642年 麗済同盟
644年 唐の高句麗出兵
660年 唐が百済を滅ぼす
668年 唐が高句麗を滅ぼす
670年 唐・新羅戦争
高句麗・百済・新羅の三国が並立。唐は660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗を滅ぼした。唐は高句麗の故地に安東都護府を設置、百済の故地に熊津都督府を設置する。さらに、新羅を鶏林州都督府として半島全域を藩属国から羈縻州としたため、一時的に朝鮮に国はなくなった。しかしその後、新羅が唐の残留部隊を襲撃して唐の領土を掠めると、唐の支配地は遼東半島にまで後退せざるを得なくなり、朝鮮半島では統一新羅が誕生する。新羅がその後属国の立場を取ると、改めて唐から冊封を許された。
伽耶諸国( – 562年)
伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争ったが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収された。伽耶諸国の呼称については、新羅においては伽耶・加耶という表記が用いられ、中国・百済・日本(倭)においては加羅あるいは任那と表記されることが多く、広開土王碑文には「任那加羅」という並列表記も見られる。日本の学界ではかつては任那という呼称が支配的であったが、1980年代後半からは「伽耶諸国」と呼ばれることが一般的となっている[24]。伽耶諸国の地域(半島南部)は史書[25]や碑文[26]の記録から日本(ヤマト王権)の強い影響力があったことは有力視されているが、その影響力の範囲を巡って多くの説が存在する。宋書倭国伝では478年、倭王武が宋の順帝に上表文を奏上し「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に任命されたと記されており、倭が六国の諸軍事に少なくとも影響力を行使している状況を認めている。詳細は伽耶・任那を参照。[27]
耽羅(済州島)( – 938年)
耽羅は498年に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属した。938年に高麗に服属した。1105年に「耽羅郡」で、1108年「済州郡」に改称、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れた
于山国(鬱陵島)( – 512年)
于山国は6世紀初めに新羅に服属した。
鶏林州都督府
唐朝が新羅を領土化するために設置した地方機関。都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に都督府を設置する統治制度。
安東都護府
唐朝が設置し現在の朝鮮半島北部から中国東北部に相当する高句麗旧域の経営を目的に設置された地方機関。
熊津都督府
唐朝が設置し、現在の忠清南道に相当する百済旧域の経営を目的に設置された地方機関。
5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた重要な証拠とされている。全羅南道では、日本にしかない原石からつくられた勾玉をつけた装飾品が出土している。また、新羅の金冠にも硬玉製勾玉が付けられており、新羅が当時、日本の後ろ盾により権威を得ていたことを示している[28]。
統一新羅時代、或いは南北国時代[編集]
詳細は「南北国時代」を参照
新羅による三国統一後、ほぼ同時期に渤海が旧高句麗の支配地域に建国され、両者は渤海が滅亡するまで並立していた。ただし、渤海を朝鮮の歴史の一部とみなすべきか否かについては賛否両論があり、渤海を朝鮮史の一部とする1975年以降の韓国では統一新羅・渤海並立時代を「南北国時代」と称しているが[29]、渤海を朝鮮史へ組み込むことに否定的な日本・中国などでは「統一新羅時代(中国語版記事)」と称される。
新羅 (676年-935年)
渤海(698年-926年、ツングース民族[30])
後三国時代[編集]
詳細は「後三国時代」を参照
新羅・後高句麗・後百済の三国が並立。最終的に後高句麗を継承した高麗によって統一された(936年)。
新羅
後高句麗(901年-918年)
後百済 (892年-936年)
中世の朝鮮半島[編集]

高麗青磁(香炉)

敬天寺十層石塔
高麗[編集]
詳細は「高麗」を参照
918年 王建が高麗を建国。
933年 後唐の冊封を受ける。
935年 新羅の敬順王、高麗に国を譲渡し、滅亡。
936年 後百済を滅ぼし朝鮮半島統一。
976年 田柴科制の創設。
1010年 契丹の侵入を撃退。
1018年 契丹の再侵入。姜邯賛の活躍により契丹軍を殲滅(亀州大捷)。
1033年 千里長城の建設開始。
1126年 李資謙の乱(ko:이자겸)。金に服属。
1135年 妙清の乱(ko:묘청)。
1170年 庚寅の乱。以後武人政権が続く。
1196年 崔忠献によるクーデター。崔氏政権の始まり。
1232年 モンゴル帝国の侵略始まる(→モンゴルの高麗侵攻)。
1259年 高麗の太子(のちの元宗王)がフビライに降り、モンゴル帝国(元)の属国化。
1260年 忠烈王は、大ハーンに即位したフビライの娘婿となる。これ以来、代々の高麗王の世子(世継ぎの太子)はモンゴル貴族や時には皇族の婿となって元朝の宮廷で暮らし、父の死後、高麗王に任命されるのが習慣となる。4代の高麗王は元皇族の娘婿となる。
1270年-1273年 武人派の軍隊三別抄のモンゴルに対する反乱。日本に対し軍事的援助を要請。
1274年・1281年 忠烈王の要請に応えた元の協力を得ての2度の日本侵攻(元寇文永の役、弘安の役)への侵略出兵により、逆に甚大な被害を受ける[31][32]。
1289年 元の征東行省が常設され、元朝の領土化。
1350年 この頃より倭寇に悩まされるようになる(「前期倭寇」〜15世紀前半)。
1351年 恭愍王即位(〜1374年)。
1354年 恭愍王による反元運動が始まる。
1356年 元軍が高麗から撤退(双城総管府を回復)。
1365年 辛旽による改革政治(〜71)。
1374年 恭愍王が暗殺される。禑王が即位(〜88)。
1388年 親明派の武将李成桂(女真族ともいわれる[13])がクーデターを起こし実権者になる(威化島回軍)。
1391年 科田法の制定。
1392年 鄭夢周が暗殺される。
征東等処行中書省(征東行省)
元が高麗を服属させた後に設置、当初は政治と軍事を統括する臨時の機関で、行中書省の一つ。日本攻略の前線機構とされたことから日本行省または征日本行省とも称される。後に常設され、朝鮮半島全土に及ぶ行政・政治・軍事の執行機関となった。
東寧府
1270年に元が朝鮮半島北西部を支配するため設置した統治機構。慈悲嶺以北を管轄し、高麗支配の拠点とされた。1290年に高麗に返還。
双城総管府
1258年に元が咸鏡南道和州(現在の金野郡近く)に設置した統治機構。1356年に奪還。
近世の朝鮮半島[編集]

景福宮の玉座と日月五峰図

世宗の王陵

大清帝国皇帝に三跪九叩頭の礼をする仁祖を記録する大清皇帝功徳碑(1639年)

大清帝国の使者を迎えるための迎恩門

丙寅教獄で尋問されるベルヌー(英語版)司教(1866年)。尋問後、信者らとともに処刑され、フランス艦隊の朝鮮遠征が行われた

アメリカ軍による朝鮮征伐辛未洋擾により破壊された朝鮮の要塞

壬午事変における軍事クーデターにより王宮とともに日本公使館が襲撃焼き討ちに遭い、小舟で脱出した日本領事等、イギリス船に救助される。(1882年)
李氏朝鮮[編集]
詳細は「李氏朝鮮」を参照
1392年 李成桂(女真族ともいわれる[13])が高麗の恭譲王から王位を簒奪し、高麗王に即位。明より権知高麗国事として認められる。
1393年 李成桂が権知朝鮮国事に冊され、国号が朝鮮となる。明の皇帝から、新たな国号を「朝鮮」と「和寧」の2案から選んでもらうという形式的手順を踏んだ。
1398年 第一次王子の乱
1400年 第二次王子の乱
1404年 室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
1418年 太宗が譲位して、世宗が即位(〜1450)。
1419年 倭寇征伐を理由として対馬に遠征する(応永の外寇)。
1420年 集賢殿設置。
1432年 四郡六鎮設置。
1443年 訓民正音の制定(1446年公布)。
1453年 癸酉靖難。首陽大君(のちの第7代国王・世祖)による政権奪取。
1456年 丙子冤獄(死六臣が処刑される)。
1466年 職田法の制定。
1467年 李施愛の乱
1468年 世祖が崩御し睿宗即位(1469年に崩御)。南怡の謀叛事件が起こる。
1474年 成宗の治世に『経国大典』頒布(1485年に施行)。
1498年 士林派に対する弾圧が始まる(戊午士禍)。
1504年 甲子士禍が起こる。
1506年 燕山君がクーデターにより失脚し、中宗が即位(中宗反正)。
1510年 在朝日本人の貿易活動等を統制したため、3港で日本人と援軍の宗軍による暴動が起こる(三浦の乱)。
1519年 己卯士禍が起こる(趙光祖の改革政治が挫折)。
1545年 仁宗崩御(在位1544年-1545年)。明宗即位。乙巳士禍が起こる。
1555年 備辺司設置。
1559年-1562年 林巨正の乱(ko:임꺽정)。
1567年 宣祖即位。勲旧派の終焉。以後、士林派同士の対立が続く。
1575年 東人・西人の党争の始まり(乙亥党論)。陶山書院建立。
1589年 鄭汝立の乱(ko:정여립)。
1592年-1598年 文禄・慶長の役。
1607年 朝鮮より回答兼刷還使が来日(→朝鮮通信使を参照のこと)。
1608年 京畿道で大同法を実施。以後、約100年をかけて全国に拡大。
1609年 李氏朝鮮と対馬の宗氏との間で己酉約条(慶長条約)が結ばれ、貿易が再開される。
1613年 七庶の獄。
1619年 サルフの戦い。
1623年 仁祖反正
1624年 李适の乱(ko:이괄의 난)。
1627年 丁卯胡乱
1636年 清のホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)。朝鮮国王仁祖、南漢山城に篭城。
1637年 仁祖降伏(三田渡の降伏)。明に替わり、清の皇帝を認める(大清皇帝功徳碑)。
1654年、1658年 羅禅征伐(ko:나선정벌)。
1660年 己亥礼訟。
1674年 粛宗即位(在〜1720年)甲寅礼訟により、南人が政権を握る。
1680年 庚申換局。
1689年 己巳換局。
1694年 粛宗の治世に甲戌の獄起こる。
1701年 巫蠱の獄(張禧嬪が賜死)。
1712年 白頭山に定界碑を建立。
1716年 丙申処分。
1721年-1722年 景宗の治世に、壬寅の獄起こる(辛壬士禍、ko:신임옥사)。
1724年 英祖即位(在〜1776)。
1728年 李麟佐の乱(ko:이인좌의 난)。
1750年 均役法を実施。
1762年 英祖の治世に老論に対立していた荘献世子が政界の陰謀(デマ)により、王命により米櫃の中に閉じ込められ、餓死する。
1776年 正祖即位(〜1800)。奎章閣設置。
1784年 李承薫が天主教の書籍を持ち込む。
1791年 辛亥邪獄。
1796年 正祖による水原華城(世界遺産)建設。朝鮮後半の全盛期。
1801年 辛酉邪獄(カトリック弾圧)。
1804年 純祖の治世、安東金氏による権勢政治( – 1863年)。士林派の終焉。
1811年 洪景来の乱(地方差別に反発した一揆)。
1862年 壬戌民乱
1863年 哲宗崩御。高宗即位。大院君政権の成立(-1873年)。
1866年 ジェネラル・シャーマン号事件。キリスト教徒の弾圧(丙寅教獄)。フランスは抗議のため、軍艦・兵士を派遣し、江華島の一部を占拠(丙寅洋擾)。
1868年 オッペルト事件。
1872年 朝鮮大飢饉[33]。
1875年 江華島事件。日本の軍艦に向けて朝鮮が突然発砲して、応酬合戦となった事件。
1876年 明治新政府と日朝修好条規を結ぶ。
1882年 米朝修好通商条約。壬午軍乱(壬午事変)起こる。中朝商民水陸貿易章程を締結。
1884年 甲申政変(甲申事変)、開化派のクーデターは失敗に終わり、事大派の勝利となる。
1885年 巨文島事件。露朝密約事件(第一次)。
1886年 露朝密約事件(第二次)。
1888年 露朝陸路通商条約。
1894年 甲午農民戦争(東学党の乱)。大院君派と閔妃派の対立が深まる。日清戦争で陸上戦闘の主戦場となる。甲午改革(〜1896年)。
1895年 下関条約成立。朝鮮が独立国であることを確認。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止される。親露反日政策をとった閔妃(明成皇后)が暗殺される(乙未事変)。
1896年 露館播遷(〜1897年2月20日)。
近代[編集]

李王家に嫁いだ梨本宮方子女王

中国軍の支援を受けた抗日パルチザンと赤軍の攻撃により焼け落ちたニコラエフスク日本領事館(尼港事件。1920年)

慰安婦募集の新聞広告。
大韓帝国[編集]
詳細は「大韓帝国」を参照
1897年 日清戦争の清の敗北を受けて締結された下関条約により、朝鮮は清の冊封体制から離脱し、朝鮮国から大韓帝国と国号を改める。この時冊封国から独立国となるが、韓国は歴史上中国の冊封国であったことを認めていない。
1904年8月23日 第一次日韓協約を結ぶ。
1905年7月29日 桂・タフト協定。韓国には日本が、フィリピンにはアメリカ合衆国が影響力を持つと、相互に認め合う。
1905年11月17日 第二次日韓協約を結ぶ。外交権を失い、日本の保護国となる。
1906年 韓国統監府設置。
1907年 国債報償運動。ハーグ密使事件。高宗が退位し純宗が即位。第三次日韓協約。内政権が日本の管轄下に入る。韓国軍の解散が定められる。
1909年 韓国統監府初代統監伊藤博文がハルビン駅にて安重根により暗殺される。朝鮮と清の国境が定まる(間島協約)。
日本統治時代[編集]
詳細は「日本統治時代の朝鮮」を参照
1910年 日韓併合条約を結び、日本に併合される(韓国併合)。韓国から朝鮮に国号を戻し、京城に朝鮮総督府が設置される[34]。
1919年 三・一独立運動。大韓民国臨時政府の樹立。
1920年 朝鮮を日本の食料供給地とする産米増殖計画が始まる。
1920年 シベリア東部のニコラエフスクで共産革命が激化し、朝鮮パルチザンが赤軍と協力して日本軍を全滅させる尼港事件が起こる。
1920年 梨本宮方子女王が李王家に嫁ぐ。
1920年 満州東部の間島で独立軍 (朝鮮)の抗日武装闘争が激化し、間島事件、青山里戦闘が起こるが、翌年自由市惨変で壊滅。
1929年 光州学生事件。
1931年 朝鮮排華事件。朝鮮から中華街がなくなる。
1933年 朝鮮語学会がハングル綴字法統一案を発表する。
1934年 朝鮮農地令施行。
1937年 白白教事件。
1937年10月2日 皇国臣民ノ誓詞が発布される。
1938年 国家総動員法施行。
1940年 2月から8月にかけて創氏改名が行われる。
1941年12月8日 日本がイギリスやアメリカ合衆国に宣戦布告。(太平洋戦争(大東亜戦争)勃発)
1942年 朝鮮語学会事件。
1944年 朝鮮徴兵令施行。
1945年8月8日 ソビエト連邦が日本に宣戦布告。ソビエト連邦軍が朝鮮半島東北部に侵攻。
1945年8月14日 北緯38度線で朝鮮を分割し、日本軍を分割武装解除することを内容とする「一般命令第一号」を、トルーマン米大統領がソビエト連邦に通告。ソビエト連邦も命令内容に同意した。
大韓民国臨時政府
1919年 三・一独立運動後に上海で設立される。
1940年 重慶に移転し、韓国光復軍を創設。
現代[編集]

連合軍将軍と李承晩

連合軍による軍政に反抗して蜂起した朝鮮人(1945年)

軍事境界線(板門店)

初代大統領李承晩

韓国に占拠された竹島

李承晩ラインに進入した日本人の抑留

国連軍に提供される慰安婦の登録実施(1961年)

アメリカとの貿易協定に抗議する数十万人の市民(2008年韓国蝋燭デモ)
連合軍軍政期[編集]
連合軍軍政期には「北朝鮮」およびに「南朝鮮」との表記が出現するが、この時代における「北朝鮮」はソビエト連邦軍政下の朝鮮地域を、「南朝鮮」はアメリカ軍政下の朝鮮地域を意味する言葉として用いられている。
連合軍軍政期
1945年8月15日 大日本帝国がポツダム宣言の受諾(第二次世界大戦の日本敗北)を表明(玉音放送)し、朝鮮半島での日本の統治終了が決定。
1945年9月2日 大日本帝国が降伏文書に調印し、第二次世界大戦が終結。朝鮮が正式に連合国軍の管轄下に入る(北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄)。
1945年9月6日 京城府で呂運亨らによって結成された「朝鮮建国準備委員会」、「朝鮮人民共和国」樹立を宣言。
1945年9月8日 ホッジ中将の米第24軍団第一陣、仁川に上陸。9日、朝鮮総督府が降伏文書に調印。
1945年9月11日 アメリカが南朝鮮で在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布。
1945年10月 アメリカが「朝鮮人民共和国」および「朝鮮建国準備委員会」の承認を拒否する。
1945年10月 北朝鮮で北朝鮮共産党臨時人民委員会樹立。
1945年12月 モスクワ三国外相会議。朝鮮半島の英米ソ中の4か国による最長5年間の信託統治の必要性決定。30日、韓国民主党党首の宋鎮禹が金九系の民族主義者により暗殺される。
1946年2月3日 満洲で朝鮮義勇軍も加わった通化事件が発生。
1946年2月3日 北朝鮮で北朝鮮臨時人民委員会樹立。
1946年10月1日 南朝鮮で大邱10月事件勃発。
1947年2月20日 北朝鮮で北朝鮮人民委員会樹立。
1948年4月3日 南朝鮮で済州島四・三事件勃発。
1948年10月19日 南朝鮮で麗水・順天事件勃発。
1948年 米ソ両国が、南北にそれぞれ自国の傀儡政権を立てる(8月15日に南側で「大韓民国」(以下、韓国)、9月9日に北側で「朝鮮民主主義人民共和国」(以下、北朝鮮)が樹立宣言。)
朝鮮戦争[編集]
朝鮮戦争(韓国では「韓国戦争」「韓国動乱」「六二五事変」、北朝鮮では「祖国解放戦争」と呼ばれる。)
1950年6月25日 北朝鮮の朝鮮人民軍が北緯38度線を南侵することで勃発。
1950年6月〜 保導連盟事件。米軍を中心に結成された国連軍が参戦。
1950年7月 老斤里事件。
1950年9月15日 仁川上陸作戦
1950年10月 中国共産党の義勇軍が戦闘に参加。
1951年 国民防衛軍事件。
1951年2月 居昌良民虐殺事件。
1951年7月〜 停戦会談を実施。
1953年7月27日 板門店で停戦協定が調印。
大韓民国[編集]
詳細は「韓国の歴史年表」を参照
第一共和国
李承晩政権…初代 – 第三代韓国大統領(1948年 – 1960年)
1948年4月3日から済州島四・三事件。
1948年10月19日 麗水・順天事件。
1949年1月7日 対馬領有宣言。日本に返還を要求[35]。
1949年12月24日 聞慶虐殺事件。
1950年 夏から保導連盟事件。
1952年 李承晩ラインの宣言(参考:対馬、竹島問題)。
1952年2月4日 第一大邦丸事件。
1953年 竹島占拠。
1959年 新潟日赤センター爆破未遂事件。
1960年 四月革命で政権崩壊。
第二共和国
尹潽善政権…第四代大統領(1960年 – 1963年)
この時期は議院内閣制のため、実質的な権力は首相の張勉にあった。
国家再建最高会議(軍政)、第三共和国、第四共和国
朴正煕政権…第五代 – 九代大統領(1963年 – 1979年)
1961年 クーデターにより政権を奪取。
1963年 大統領の座に就く(第三共和国)。
1965年 日韓基本条約を締結する。
1965年 ベトナム戦争に参戦。
1965年 人民革命党事件(第一次)が発生。
1968年1月21日 青瓦台襲撃未遂事件。
1968年2月12日 フォンニィ・フォンニャットの虐殺。
1971年8月23日 実尾島事件。
1971年12月6日 国家非常事態を宣布[36]。
1972年7月4日 北朝鮮と同時に南北共同声明(七・四共同声明)を発表。
1972年10月17日 維新体制を構築(第四共和国)。
1974年8月15日 文世光事件。
1974年 民青学連事件が発生。
1979年 朴正煕大統領が側近に暗殺される(朴正煕暗殺事件)。
崔圭夏政権…第十代大統領(1979年 – 1980年)
1979年12月12日 粛軍クーデター。
第五共和国
全斗煥政権…第十一代・十二代大統領(1980年 – 1988年)
1980年5月18日 光州事件。
1987年 六月抗争。
1987年6月29日 六・二九民主化宣言。
第六共和国
盧泰愚政権…第十三代大統領(1988年 – 1993年)
1988年 ソウル五輪。
1991年 国際連合加盟。北朝鮮と同時加盟。
金泳三政権(文民政府)…第十四代大統領(1993年 – 1998年)
1994年 核危機が発生。米国の対北戦争を水際で回避。
1995年 全斗煥、盧泰愚を光州事件などに関して訴追。
1997年 アジア通貨危機。
金大中政権(国民の政府)…第十五代大統領(1998年 – 2003年)
太陽政策(北朝鮮宥和政策)を開始。金正日との初の南北首脳会談を行う(2000年6月)。
日本大衆文化開放を開始。
2002年 日韓共催サッカーワールドカップ。
盧武鉉政権(参与政府)…第十六代大統領(2003年 – 2008年)
2004年3月12日 国会が盧武鉉大統領に対する弾劾訴追を可決。高建が大統領職務を代行。
2004年4月15日 第17代国会議員総選挙でウリ党圧勝。国民、弾劾拒否の意思を示す。
2004年5月14日 憲法裁判所、弾劾訴追を棄却。盧武鉉が大統領職に復帰。
2007年10月2日‐10月4日 第二次南北首脳会談
李明博政権…第十七代大統領(2008年 – 2013年)
2009年11月22日 四江(漢江、洛東江、錦江、栄山江)整備事業を始めた。
2010年11月11日 ソウルでG20首脳会議が開催された。
朴槿恵政権…第十八代大統領(2013年 – 2017年)
文在寅政権…第十九代大統領(2017年 – 現在)
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)[編集]
詳細は「朝鮮民主主義人民共和国の歴史」を参照

日本総領事館脱北者駆け込み事件で日本総領事館に駆け込んだ少女と日本人拉致事件で拉致された横田めぐみさんの家族と会見するジョージ・W・ブッシュアメリカ合衆国大統領(当時)
金日成体制(1945年 – 1994年)
1949年 南北朝鮮の主要政党団体の集結により、「祖国統一民主主義戦線」が結成される。
1949年6月 朝鮮労働党成立。金日成が中央委員長に就任。
朝鮮戦争後、金日成が朴憲永などを粛清。
1956年4月 朝鮮労働党第3回大会開催。
1956年8月29日 8月宗派事件、ソ連派の朴昌玉、延安派の崔昌益などが金日成に粛清される。
1958年8月 社会主義制度が確立される。
1961年9月 朝鮮労働党第4回大会開催。
1968年1月23日 プエブロ号事件。
1970年11月 朝鮮労働党第5回大会開催。
1972年7月4日 大韓民国と同時に南北共同声明(七・四共同声明)を発表。
1972年 金日成の反対勢力への粛清が完了。朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が制定され、新設ポストの国家主席に金日成が就任。
1973年 金日成の後継者問題が浮上。
1977年 「朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法」における国家の公式理念が、マルクス・レーニン主義から主体思想に変更される。
1980年10月 朝鮮労働党第6回大会開催。
1987年1月 第3次7ヵ年計画(事実上最後の経済開発計画)の遂行に着手。(1993年に未完遂で終わる。)
1989年7月 平壌で第13回世界青年学生祭典が開催される。
1991年9月17日 国際連合加盟(大韓民国と同時加盟)
1994年7月8日 金日成死去(英語版)。
金正日体制(1997年 – 2011年)
2000年 韓国の金大中大統領との初めての南北首脳会談を実施。6.15南北共同宣言を発表。
2002年 日朝首脳会談、日朝平壌宣言
2004年12月9日 日本からの人道支援の残りの15万5,000トンが停止される。
2005年2月11日 核兵器製造・保有を公式に認める。
2006年7月15日 国際連合安全保障理事会が決議第1695号を採択。
2006年10月9日 核実験実施を発表。
2006年10月15日 国際連合安全保障理事会が決議第1718号を採択。
2011年12月17日 金正日死去。
金正恩体制
2016年5月 36年ぶりの朝鮮労働党大会を開催。
脚注[編集]
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^ 中国北方新石器文化研究の新展開【詳細報告】「東北アジアにおける先史文化の交流」 王 巍(中国社会科学院考古研究所・副所長)
^ 考古学的には田の形状や石器などに大きな変化が見られる。
^ 『三国志』
^
鳥越憲三郎は、「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」と記している(『人物』 中西進・王勇編、大修館書店〈日中文化交流史叢書 第10巻〉、1996年10月。ISBN 4-469-13050-8。)。
渡辺延志朝日新聞記者は、「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地(渡辺延志 (2009年3月19日). “紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見”. 朝日新聞 2011年6月1日閲覧。)」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡(渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)”. 朝日新聞 2011年6月1日閲覧。)」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた(渡辺延志 (2010年5月29日). “最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(2/2ページ)”. 朝日新聞 2011年6月1日閲覧。)」と説明している。
武光誠は、「魏志倭人伝は、朝鮮半島にあった魏の植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」と述べている(武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『月刊現代』2008年6月号 87頁)
^ 『日本書紀』、『宋書』夷蛮列伝、蕭繹『職貢図』
^ 吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。ISBN 4-00-430510-1。 pp.74-78.
^ 『任那興亡史』31P-200P
^ 『任那興亡史』189P-213P
^ a b 井上秀雄 『古代朝鮮』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004年10月。ISBN 4-06-159678-0。 pp.106-107.
^ 日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国(→上垣外2003 p.70)、但馬国、肥後国玉名郡などに比定する説がある。また、新羅人の地理的知識の増加に伴って『三国志』に見える西域の小国の名を借りたか西域の楽神の乾達婆信仰に由来する国名に改めたものであり、倭国の東北とする文言も後世の挿入とみる説もある(→井上訳注1980 p.35)。『三国遺事』では龍城国とされる。
^ 『旧唐書』東夷列伝新羅の条
^ 韓国 渤海を確固たる韓国史にしようと「官民総動員体制」に『SAPIO』2013年3月号
^ a b c
池内宏『満鮮史研究 近世編』 中央公論美術出版
山内弘一「朝鮮王朝の成立と両班支配体制」 武田幸男編集『朝鮮史』山川出版社
室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』新潮新書
宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』、PHP研究所、160頁「李氏朝鮮は1392年、元が衰退したのちに親『明』であった女真族の李成桂が建国し、コリア半島をほぼ制圧したあと、1402年に明に朝貢・冊封した。」
豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』、彩図社、70頁「倭寇の撃退に功績をあげた李成桂は1392年、高麗を倒して朝鮮を建国。漢城(現ソウル)に都をおいた。出身については、女真族だったと主張する研究者も多い。出身地が女真居住地域だったこと、李成桂がモンゴル名を持っていたこと、幕下に女真の首領を加えたことなど、数々の傍証がある。」
岸本美緒/宮嶋博史「明清と李朝の時代」『世界の歴史 12』、中央公論社、17頁「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。」
倉山満『嘘だらけの日韓近現代史』、扶桑社、34頁「1392年、李成桂という謎の人物が高麗を倒し、新王朝を建国します。謎というのは、どこの誰だかよくわからないからです。韓国は当然ながら朝鮮人だと言いますし、中国人のなかには漢民族だとか、モンゴル軍閥の一人だと言う人もいます。最も信憑性が高いのは、女真人(満州人)でしょう。」
岡田英弘宮脇淳子研究室『論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である』
^ 『朝鮮史』武田幸男編184頁
^ 箕子朝鮮の建国者である箕子については、『史記』巻38宋微子世家に「武王既克殷、訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮・・・」とあり、殷を出自とする中国人となる。
^ 『後漢書』には「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。(初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。)」と記されており、衛満が箕子朝鮮を滅ぼした際に箕子朝鮮の最後の王、準王は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻め落として韓王となって馬韓を支配したという。
^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, pp.38-42
^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.22
^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.23
^ 岡田英弘『日本史の誕生』筑摩書房,2008.ISBN 978-4-480-42449-5, p.25-27
^ 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、燕を出自とする中国人となる。
^
シロコゴロフ、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
白鳥庫吉『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『濊貊は果たして何民族と見做すべきか』濊貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したというが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
三上次男・神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
鳥越憲三郎『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
浜田耕策『日本大百科全書』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押し出されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余、高句麗、沃沮を構成したツングース系の諸族を含むのである」
村山正雄『日本大百科全書』「【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名」
佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
護雅夫『日本大百科全書』「【騎馬民族】高句麗は東北アジア、満州にいたツングース系民族」
諏訪春雄「朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族(学習院大学教授 諏訪春雄通信)」
黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
広辞苑「【高句麗】紀元前後、ツングース族の扶余の朱蒙の建国という」
大辞泉「【高句麗】紀元前後にツングース系の扶余族の朱蒙が建国」
南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
長野正孝『古代史の謎は鉄で解ける』(2015年、PHP研究所)「高句麗はツングース系の騎馬民族がつくった国家で、定住化によって遊牧から次第に離れたが、騎馬による戦力は絶大なものがあった。」
宮家邦彦『哀しき半島国家韓国の結末』(2014年、PHP研究所)p160「高句麗は紀元前三七年、マンジュ地方の鴨緑江付近で興ったツングース系国家であり、四世紀中ごろに南下して、楽浪郡北部を征服した。」
豊田隆雄『本当は怖ろしい韓国の歴史』(2016年、彩図社)p9「高句麗は、韓族で構成される新羅や百済と違って北方のツングース系の国家」
薗田香融『日本古代の貴族と地方豪族』(1992年、塙書房)、p259「今の北朝鮮に当る部分にはツングース系の高句麗」
埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
酒井忠夫『世界史研究』(1953年、績文堂)p128「高句麗(北満の半農半牧のツングース族が漢代以後中国文化の影響により興り建国)」
渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
三上次男『古代東北アジア史研究』(1966年、吉川弘文館)p87「広く東北アジアに居住する諸族を当昔にわたって見わたすと、東部シベリアから、東満洲、北朝鮮の山岳森林地帯には、古の貊や高句麗、中世以後の女真、満洲など、いわゆるツングース系の語族が変らない大勢力を擁していたことがわかる。」
青木慶一『民衆と戦争』(1978年、東明社)p40「オロッコ-ツングースなどから成る高句麗が次第に南進して百済を圧迫するに至った。」
成瀬治『世界史の意識と理論』(1997年、岩波書店)p116「すなわち、五胡が中国の華北に侵入し、騎馬民族の高句麗が朝鮮に勢力を拡大したころ、高句麗と同じツングース系の騎馬民族」
沖浦和光『辺界の輝き』(2002年、岩波書店)p32「ツングース族などの騎馬民族系は、南下してきて朝鮮の北部に高句麗を建国します。話が長くなるので略しますが、それから百済王朝を攻め滅ぼします。」
白崎昭一郎『広開土王碑文の研究』(1993年、古川弘文館)p49「『言語法俗大抵与句麗同』というから、高句麗と同系で、恐らくツングース系の民族であったろう。」
水野祐『古代の出雲』(1972年、吉川弘文館)p300「朝鮮半島へ南下した大陸系北方民族が、高句麗にしても、扶余にしても、濊にしても、いずれもみな満州に原住したツングース系統と考えられている。」
小島直記『松永安左ェ門の生涯』(1980年、松永安左ェ門伝刊行会)p1073「朝鮮には、西暦紀元頃、ツングース系の高句鹿と、そして漢民族の移民とが住んでいたという。」
佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」
室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』(2010年、新潮社)p193「(中国の史書には)高句麗などのツングース系民族と韓族との間には、比較の記述がない。(民族が)違うことが大前提であり、わざわざ違うとは書いていない」
^ a b 『三国志』魏書辰韓伝「辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。(辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している)」によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。また、『北史』新羅伝には、「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。(新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている)」との記述がある『北史』新羅伝。水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている(『謎の渡来人秦氏』2009年、文春新書 36頁)。そのため、中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は、公式研究書で新羅に対して、「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している東北工程:百済・新羅も「中国史の一部」=中国社会科学院 『朝鮮日報』2007年6月4日
^ 鈴木靖民ほか著『伽耶はなぜほろんだか』<増補改訂版>、大和書房、1998 ISBN 4-479-84047-8(初版1991)
^ 『三国志』東夷伝、『宋書』夷蛮伝
^ 広開土王碑
^ 日本書紀によると、『日本書紀』512年条に「任那四県」の百済への割譲が記載されるなど、任那は日本の影響下にあったとされる。
^ 拳骨拓史『日中韓2000年の真実』扶桑社新書
^ 北朝鮮も渤海を朝鮮の歴史の一部とみなしているが、「南北国時代」なる用語は使わない。
^
森安孝夫『日本大百科全書』「【渤海】現在の中国東北地方、ロシア連邦の沿海州、北朝鮮の北部にまたがる広い範囲を領有して栄えた満州ツングース系の民族国家」
和田萃『日本史事典』(1990年、東京創元社)「【渤海】7世紀末から10世紀前半にかけて、中国東北地方にあったツングース系民族の国家。高句麗の同族である靺鞨から出た大祚栄により建国された」
藤本和貴夫『日本大百科全書』「【シベリア】7~10世紀には極東地方から満州、朝鮮北部にツングース系の渤海国が建てられた」
黄文雄『韓国は日本人がつくった』(2002年、徳間書店)「遼東や北満の地は、かつて高句麗人、渤海人などの(中略)ツングース系諸民族が活躍した地である」
佐々木史郎『日本大百科全書』「【満洲族】夫余と靺鞨はツングース系の民族ではないかと考えられている」
『世界史用語集』(2014年、山川出版社)「【靺鞨人】中国東北部に東部にツングース系諸族。6世紀半ば勿吉の崩壊後の部族の総称」
菊池俊彦『日本大百科全書』「【靺鞨】6世紀後半から中国東北の松花江流域を中心に、北は黒竜江中・下流域、東はウスリー川流域、南は朝鮮半島北部に勢力を振るったツングース系諸族の一派」
広辞苑「【靺鞨】ツングース族の一。粟末靺鞨の首長大祚栄は渤海国を起し、また黒水靺鞨は後に女真と称した」
大辞泉「【渤海】698年、ツングース系靺鞨族の首長大祚栄が建国」
大辞泉「【靺鞨】中国、隋・唐の時代に、中国東北部から朝鮮半島北部に住んでいたツングース系諸族の中国側からの呼び名。七部に分かれ、その一部である粟末部は、渤海国を建国。黒水部はその支配下に入らず、のちに女真と称された」
大辞林「【靺鞨】中国、隋唐時代に東北地方から朝鮮半島北部に居住したツングース系諸族の総称。勿吉崩壊後、有力な七部に分立、粟末部を中心に渤海を建てたが、黒水部は対立してのちに女真族となった」
安藤達朗『いっきに学び直す日本史』(2016年、東洋経済新報社)「7世紀に満州で建国したツングース族の渤海は、唐や新羅に対抗するため、727(神亀4)年に朝貢してきた。」
田村実造『中國征服王朝の研究』第1巻(1964年、東洋史硏究會)「渤海人はもともとツングース系の狩猟民であるが、かつて渤海國をおこし尚文化を掃取したので、キタイ族・奥族よりは定著し農耕化していたようである。」
渡部昇一『ことばの発見』(1975年、中央公論社)p87「東洋史の上で遼とか金とか高句麗とか渤海とか清とか言うのもツングースである。」
埴原和郎『日本人と日本文化の形成』(1993年、朝倉書店)p211「歴史時代に興亡した扶余も、靺鞨も、高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系だといわれている。」
鈴木俊『東洋史要説』(1960年、吉川弘文館)p176「渤海も唐の制度、文物を輪入し、唐にならって三省六司の制を設け、十五府六十二州の地方区画や五丹江の上流域に拠り、ツングース系の半狩猟半農耕民の靺鞨人を統合して独立し、唐から渤海郡王に封ぜられ」
中国研究所『中国年鑑』(2002年、大修館書店)p393「古くからツングース系の諸族が興亡をくり返した地であるが、周王朝の時代から朝貢をおこなっていたとの記録もある。靺鞨族により創建された渤海国」
今西正雄『民族文化史概説』(1943年、全國書房)「遼の契丹族に遂はれたツングース系渤海の後身で女眞族」
佐々木高明『地域と農耕と文化』(1998年、大明堂)p317「高句麗や渤海も、濊や沃沮などもツングース系の民族だといわれている。」
^ 『高麗史』一百四 列伝 巻十七 金方慶伝「十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期。..(中略)..用本國船様督造。」
^ 『元史』 卷十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日)の条 に「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本。」
^ 朝鮮大飢饉新聞集成明治編年史第一卷、林泉社、1936-1940
^ 国号改称(明治43年8月勅令318号)- 韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件ヲ裁可シココ二之ヲ公布セシム韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今(じこん)朝鮮ト称ス
^ 今日の歴史(1月7日) 聯合ニュース 2009/01/07
^ 今日の歴史(12月6日) 聨合ニュース 2008/12/06
参考文献[編集]
吉田孝 『日本の誕生』 岩波書店〈岩波新書〉、1997年6月。ISBN 4-00-430510-1。
井上秀雄 『古代朝鮮』 日本放送出版協会〈NHKブックス172〉、1972年。ISBN 4-14-001172-6。
井上秀雄 『古代朝鮮』 講談社〈講談社学術文庫〉、2004年10月。ISBN 4-06-159678-0。
水野俊平 『韓国の歴史』 李景珉監修、河出書房新社、2007年9月。ISBN 978-4-309-22471-8。
関連項目[編集]

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