パブロ・ピカソ[1](Pablo Picasso [ˈpaβlo piˈkaso], 1881年10月25日 – 1973年4月8日)は、スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。
ジョルジュ・ブラックとともに、キュビスムの創始者として知られる。生涯におよそ1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家であると『ギネスブック』に記されている。

目次  [非表示]
1
名前
2
年表
3
作風
4
私生活
5
イデオロギー
5.1
左翼・反体制思想
5.2
フランス共産党員
6
晩年
7
死後
8
家族
9
語録
10
脚注
11
参考文献
12
外部リンク

名前[編集]
ピカソの洗礼名は、聖人や縁者の名前を並べた長いもので、長い名前の例としてよく引き合いに出される。諸説あるが、講談社が1981年に出版した『ピカソ全集』によると、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード (Pablo Diego José Francisco de Paula Juan Nepomuceno María de los Remedios Cipriano de la Santísima Trinidad) である[2]。フルネームはこの後に、父親の第一姓ルイス (Ruiz) と母親の第一姓ピカソ (Picasso) が続く(スペインの姓は、父親の第一姓を第一姓に、母方の第一姓を第二姓にして、機械的に個人の姓が決まる)。 画家として活動を始めたピカソは、はじめパブロ・ルイス・ピカソと名乗り、ある時期から父方の姓のルイスを省き、パブロ・ピカソと名乗るようになった。
年表[編集]

ピカソの生まれたマラガの家
1881年10月25日午後9時30分、スペイン南部アンダルシア地方のマラガ市のプラス・ラ・メルセド15(当時は36)に生まれた。長男。父はアンダルシア地方サン・テルモ工芸学校美術教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス[3]。
1891年、ガリシア地方ラ・コルーニャに移住。父ドン・ホセは同市ダ・グワルダ工芸学校美術教師、地域の美術館の学芸員に赴任。
1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学。
1894年、父ドン・ホセは絵の道具を息子に譲り自らが描くことをやめる。一説に息子の才能への賞賛が原因とされる[3]。
1895年、バルセロナに移住、美術学校に入学。1月の猶予のある入学製作を1日で完成させる。初期の作品は、バルセロナの小路ラ・プラタ通りのアトリエで描かれた。
1897年、父の指導のもとで描いた古典的な様式の『科学と慈愛』がマドリードで開かれた国展で佳作を受賞、マラガの地方展で金賞を受賞。同年秋、マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。だが、ピカソはアカデミズム・学校で学ぶことの無意味さを悟り、中退する。プラド美術館に通い、ベラスケスらの名画の模写することで絵画の道を求めていった。
1898年、春猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロで療養[3]。
1899年、バルセロナに戻ってきた。バルセロナで若い芸術家(サロン)たちと交わりながら熱心に絵を描く。店のメニューをデザインしたり、アールヌーヴォー調のポスターを描いたりした。
1900年、カサヘマス、パリャーレスとともにパリを初訪問。その後バルセロナとパリの間を何度か行き来する。
1901年、雑誌「若い芸術」の編集に関わる。6月、パリで初の個展。「青の時代」の始まり。
1902年10月、パリで、マックス・ジャコブと共に住む
1904年4月、詩人のマックス・ジャコブによって〈洗濯船〉と名付けられたモンマルトルの建物に部屋を借り、パリに腰を据える。
1905年、「ばら色の時代(Picasso’s Rose Period)」または「桃色の時代」[4]が始まる(~1907年)。
1907年、『アビニヨンの娘たち』製作。
1911年9月、ルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』が盗まれ、容疑者の一人として逮捕された(ただし1週間で釈放された)。同じく逮捕された友人のギョーム・アポリネールについて、「彼は知人ではない」と証言したせいで、その後彼としこりを残した。
1912年、モンパルナスへ移る。
1913年、父ホセ・ルイス・ブラスコ死去。
1916年、パリ郊外モンルージュに移る。
1917年、バレエ『パラード』の装置、衣装を製作。
1918年1月、オルガ・コクローヴァと結婚。パリ、ラ・ボエシーに移る。
1919年5月、ロンドンで『三角帽子』の装置、衣装を製作。
1920年、『プルチネルラ』の衣装を製作。新古典主義時代。
1921年、息子パウロ誕生。
1922年、コクトーの『アンティゴーヌ』の装置、衣装を担当。
1924年、バレエ『メルキュール』(ディアギレフ)の装置、衣装を製作。
1928年、彫刻に専心。
1930年、『ピカソ夫人像』がカーネギー賞を受賞。
1931年、『変身譚』の挿絵を制作。
1932年、マリ・テレーズ・ヴァルテルと共同生活を始める。
1934年、スペインへ旅行、『闘牛』連作を描く。
1935年、娘マハ誕生。詩作。
1936年、人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。
1937年、『フランコの夢と嘘』(エッチング)出版、『ゲルニカ』製作。
1939年、ニューヨーク近代美術館で個展、『アンティーブの夜漁』を描く。
1940年、ナチス・ドイツ占領下のパリへ帰る。ナチにより解放されるまでパリを離れることができなくなった。
1941年、戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。
1944年、パリ解放後最初のサロン・ドートンヌに戦争中に製作した80点の作品を特別展示。フランス共産党入党。
1945年、ロンドン、ブリュッセルで個展。
1946年、フランソワーズ・ジローと共同生活。
1947年、息子クロード誕生。陶器製作。
1949年、娘パロマ誕生。
1951年、『朝鮮の虐殺』製作。
1952年、『戦争と平和』のパネルを制作。
1953年、リヨン、ローマ、ミラノ、サンパウロで個展。
1954年、ジャクリーヌ・ロックと共同生活を始める。
1955年、カンヌ「ラ・カルフォルニ」に住む。
1958年、『イカルスの墜落』製作(パリ、ユネスコ本部)。
1964年、日本、カナダで回顧展。
1966年、パリ グラン・パレ、プティ・パレで回顧展。
1967年、シカゴで巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』公開。
1968年、版画に専心、半年間に347点を製作。
1970年、アヴィニョン法王庁で140点の新作油絵展。バルセロナのピカソ美術館開館。
1973年4月8日午前11時40分(日本時間午後7時40分)頃、南仏ニース近くにあるムージャンの自宅で肺水腫により死去。
作風[編集]
ピカソは作風がめまぐるしく変化した画家として有名であり、それぞれの時期が「◯◯の時代」と呼ばれている。以下がよく知られている。
青の時代(1901年~1904年)
19才のとき、親友のカサヘマスが自殺したことに大きなショックを受け[5]、鬱屈した心象を、無機顔料のプロシア青を基調に使い、盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。現在「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。
ばら色の時代(1904年~1907年)
フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。
アフリカ彫刻の時代(1907年~1908年)
アフリカ彫刻の影響を強く受けた時代。このとき、キュビスムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。
セザンヌ的キュビスムの時代(1909年)
スペインのオルタ・デ・エブロに旅し、セザンヌ的な風景画を描いた。
分析的キュビスムの時代(1909年~1912年)
モチーフを徹底的に分解・記号化し、抽象絵画にもっとも接近した時代である。
総合的キュビスムの時代(1912年~1918年)
装飾性と色彩の豊かさが特徴で、ロココ的キュビスムとも呼ばれる。このころ、新聞紙や壁紙をキャンバスに直接貼り付けるコラージュを発明したが、これはマルセル・デュシャンのレディ・メイドの先駆である。
新古典主義の時代(1918年~1925年)
妻オルガと息子パウロをモデルに、どっしりと量感のある母子像を描いた。
シュルレアリスム(超現実主義)の時代(1925年~1936年)
化け物のようなイメージが多く描かれた時期で、妻オルガとの不和が反映していると言われる。代表作は『ダンス』『磔刑』など。
ゲルニカの時代(1937年)
ナチ・ドイツ(実行したのはドイツ空軍のコンドル軍団である)がスペインのゲルニカを爆撃したことを非難する大作『ゲルニカ』や、その習作(『泣く女』など)を描いた。
晩年の時代(1968年~1973年)
油彩・水彩・クレヨンなど多様な画材でカラフルかつ激しい絵を描いた。自画像も多く手がけた。
私生活[編集]
ピカソは仕事をしているとき以外は、一人でいることができなかった。パリ時代初期には、モンマルトルの洗濯船やモンパルナスに住む芸術家の仲間、ギヨーム・アポリネール、ガートルード・スタイン、アンドレ・ブルトンらと頻繁に会っていた。
正式な妻以外にも何人かの愛人を作った。ピカソは生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作った。ピカソがパリに出て最初に付き合ったのはフェルナンド・オリヴィエ(en:Fernande Olivier)だが、「青の時代」「ばら色の時代」をへて富と名声を得たピカソは、つぎにエヴァ・グール(fr:Eva Gouel) という名前で知られるマルセル・アンベール(Marcelle Humbert)と付き合った。ピカソは彼女を讃えるために、作品に「私はエヴァを愛す (J’ AIME EVA)」、「私の素敵な人 (MA JOLIE)」などの言葉を書き込んだ。しかし彼女は癌を患い、1915年に亡くなった。
1916年、ピカソはセルゲイ・ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の舞台美術を担当した(ジャン・コクトー作『パラード』)。そこでバレリーナで貴族出身のオルガ・コクローヴァ(en:Olga Khokhlova)と知り合い、1918年に結婚した。オルガはピカソをパリの上流階級の社交界に引き入れ、ブルジョワ趣味を教えた。二人のあいだには息子パウロ(Paulo)が生まれた。ピカソははじめのうちこそ妻に調子を合わせていたが、しだいに生来のボヘミアン気質が頭をもたげ、衝突が絶えなくなった。
1927年、ピカソは17歳のマリー・テレーズ・ワルテル(en:Marie-Thérèse Walter)と出会い、密会を始めた。ピカソはオルガと離婚しようとしたが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止した。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続いた。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘マヤ(Maya)が生まれた。
またピカソは1936年から1945年まで、カメラマンで画家のドラ・マール(en:Dora Maar )と愛人関係をもった。彼女はピカソ芸術のよき理解者でもあり、『ゲルニカ』の制作過程を写真に記録している。
1943年、ピカソは21歳の画学生フランソワーズ・ジロー(en:Françoise Gilot)と出会い、1946年から同棲生活を始めた。そしてクロード(en:Claude Picasso)とパロマ(en:Paloma Picasso)が生まれた。しかし、フランソワーズはピカソの支配欲の強さと嗜虐癖に愛想をつかし、1953年、2人の子を連れてピカソのもとを去り、他の男性と結婚した。このことはピカソに大きな打撃を与えた。フランソワーズはピカソを捨てた唯一の女性と言われている。
しかしピカソはすぐ次の愛人ジャクリーヌ・ロック(en:Jacqueline Roque)を見つけた。彼女は南仏ヴァロリスの陶器工房で働いていたところをピカソに見そめられ、1961年に結婚した。しかし、この結婚は、ピカソのフランソワーズに対する意趣返しという目的が隠されていたと言われている。当時フランソワーズはクロードとパロマの認知を得る努力をしていたので、ピカソはフランソワーズに「結婚を解消すれば、入籍してあげてもいい」と誘いかけた。これに乗ってフランソワーズが相手と協議離婚すると、ピカソは既にジャクリーヌ・ロックと結婚していた。
このころピカソは、ジャン・コクトー監督の映画『オルフェの遺言』(1960年)に、自身の役でカメオ出演している。
ピカソが亡くなったとき、長男パウロとパウロの長男(ピカソの孫にあたる)パブリートはすでに死んでいた。パウロは酒と麻薬に溺れて身体を壊し、パブリートは自殺だった。ピカソの遺産は後妻のジャクリーヌが3割、早逝した先妻オルガと長男パウロの取り分4割を、パウロの子供であるベルナールとマリーナが2割ずつ、非嫡出子であるマヤとクロードとパロマは1割ずつで分けられた。
ピカソの死から年月は経るが、マリー・テレーズとジャクリーヌ・ロックは後に自殺している。フランソワーズ・ジローは、現在まで画家として旺盛な創作を続けている(2010年に東京で日本初の個展を開催)。ピカソの孫にあたるマリーナ(Marina、パウロの長女)の著書には、「いいおじいちゃんになる方法を教えてあげられれば良かった」という言葉がある。
イデオロギー[編集]
左翼・反体制思想[編集]
ピカソが平和主義者だったのか、それともただの臆病者だったのか、現在でも議論が続いている。第一次世界大戦、スペイン内戦、第二次世界大戦という3つの戦争に、ピカソは積極的に関わらなかった。フランスの2度にわたる対ドイツ戦争では、スペイン人であるピカソは招集されずにすんだ。スペイン内戦では、ピカソはフランコとファシズムに対する怒りを作品で表現したが、スペインに帰国して共和国市民軍に身を投じることはしなかった[6]。
ピカソは青年時代にも、カタルーニャの独立運動のメンバーたちと付き合ったが、結局運動には参加しなかったという経歴がある。
スペイン内戦中の1937年、バスク地方の小都市ゲルニカがフランコの依頼によりドイツ空軍遠征隊「コンドル軍団」に空爆され、多くの死傷者を出した。この事件をモチーフに、ピカソは有名な『ゲルニカ』を制作した。死んだ子を抱いて泣き叫ぶ母親、天に救いを求める人、狂ったように嘶く馬などが強い印象を与える縦3.5m・横7.8mのモノトーンの大作であり、同年のパリ万国博覧会のスペイン館で公開された。ピカソはのちにパリを占領したドイツ国防軍の将校から「『ゲルニカ』を描いたのはあなたですか」と問われるたび、「いや、あなたたちだ」と答え、同作品の絵葉書を土産として持たせたという。
スペイン内戦がフランコのファシスト側の勝利で終わると、ピカソは自ら追放者となって死ぬまでフランコ政権と対立した。『ゲルニカ』は長くアメリカのニューヨーク近代美術館に預けられていたが、ピカソとフランコがともに没し、王政復古しスペインの民主化が進んだ1981年、遺族とアメリカ政府の決定によりスペイン国民に返された。現在はマドリードのソフィア王妃芸術センターに展示されている。
1940年にパリがナチス・ドイツに占領され、親独派政権(ヴィシー政権)が成立した後も、ピカソはパリにとどまった。このことが戦後にピカソの名声を高める要因になった(多くの芸術家たちが当時アメリカ合衆国に移住していた)。しかし本人はただ面倒だったからだとのちに述べている。ヴィシー政権はピカソが絵を公開することを禁じたため、ひたすらアトリエで制作して過ごした。ヴィシー政権は資源不足を理由にブロンズ塑像の制作を禁止したが、レジスタンス(地下抵抗組織)が密かにピカソに材料を提供したので、制作を続けることができた。
フランス共産党員[編集]
1944年、ピカソは友人らの勧めはあったにせよ、自らの意志でフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けた。何かとピカソの共産主義思想を否定したがる人に対し「自分が共産主義者で自分の絵は共産主義者の絵」と言い返したエピソードは有名である。しかし、友人のルイ・アラゴンの依頼で描いた『スターリンの肖像』(1953年)が批判されるなど、幾多のトラブルを経験した。
晩年[編集]
1950年代、ピカソは過去の巨匠の作品をアレンジして新たな作品を描くという仕事を始めた。有名なのは、ディエゴ・ベラスケスの『ラス・メニーナス』をもとにした連作である。ほかにゴヤ、プッサン、マネ、クールベ、ドラクロワでも同様の仕事をしている。
1955年にはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』の撮影に協力した。ピカソがこの映画で描いた絵画は、撮影後全て破棄され、現在では見ることができない。この映画は1956年の第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞、1984年にはフランス国宝に指定されている。
ピカソの最晩年の作風は、彼がそれまで経てきたスタイルの混合である。ピカソは最後のエネルギーを制作に注入し、より大胆に、カラフルで激しい絵を描いた。
1968年、彼は347点におよぶエロティックな銅版画を制作。その中には、『しゃがむ女』や『裸婦たち』などの開脚して女性器を露わにする女性たちを描いたものがある(これは、現代写真家のペッター・ヘグレに影響を与える。)多くの批評家がこれを「不能老人のポルノ幻想」、あるいは「時代遅れの画家のとるにたらぬ絵」とみなした。長い間支持者として知られた批評家のダグラス・クーパーさえ「狂った老人の支離滅裂な落書き」と評した。しかしピカソ本人は「この歳になってやっと子供らしい絵が描けるようになった」と言い、悪評は一切気にしなかった。
晩年のピカソの作風は、のちの新表現主義に大きな影響を与えたと考えられている。ピカソは死ぬまで時代を先取りする画家であった。
死後[編集]

ピカソ美術館(パリ)
ピカソは1973年の死の時点で、多数の作品を手元に残していた。また友人の画家(アンリ・マティスなど)の作品を交換や購入によって相当数持っていた。フランス政府は遺族から相続税としてこれらの作品を徴収し、1985年に国立ピカソ美術館を開館した。一作家の美術館としては世界最大の規模を誇るもので、ピカソの作品だけで油絵251点、彫刻と陶器160点、紙に描かれた作品3000点を所蔵している。
2003年には遺族がピカソの出身地であるスペインのマラガにピカソ美術館を開館した。
1996年、映画『サバイビング・ピカソ』が公開された。フランソワーズ・ジローとピカソの関係を描いたもので、アンソニー・ホプキンスがピカソを演じた。
2004年、ニューヨークのサザビーズの競売で、ピカソの『パイプを持つ少年』(1905年)が1億416万8000ドル(約118億円)で落札され、絵画取り引きの最高額を更新した。2006年5月には、同じくサザビーズの競売で『ドラ・マールの肖像』(1941年)が9521万6000ドル(約108億円)で落札された。
2010年5月4日、ピカソの『ヌード、観葉植物と胸像』がニューヨークのクリスティーズで約1億650万ドル(約101億円)で落札され、最高額を更新した。ロサンゼルスの収集家が1950年代に購入した作品で事前予想でも8000万ドル以上と予想されていた。それまで(2010年2月当時)の最高額はアルベルト・ジャコメッティのブロンズ像『歩く男』の約1億430万ドルだった[7]。
2006年10月、ラスベガスのホテル王で美術品収集家としても知られるスティーブ・ウィンが、1億3900万ドル(約165億円)で別の収集家に売却する予定だったピカソの名画「夢」に誤ってひじを食らわせ、直径約2.6cmの穴を開けてしまった。事件を目撃した友人がインターネットのブログに書き込みをして詳細が発覚した。ウィンは1997年にこの絵を4840万ドル(約58億円)で購入し、長年大切にしてきた。もうすぐお別れとなる絵の前に立ち、友人らに説明していたところ、誤って名画の真ん中に穴を開けてしまった。結局、契約はないことになり、名画は修理され、ウィンの元にとどまることになった。ウィンは穴を開けた瞬間、「何てことをしてしまったのか。でも(破ったのが)私でよかった」と話したという。
2012年7月、オランダのクンストハル美術館が所蔵していた「アルルカンの頭部」が、クロード・モネやルシアン・フロイドの絵画と共に盗難される。翌年になって犯人は逮捕されたが、絵画は既に焼却されていた[8]。
家族[編集]
ピカソにはかけがえのないパートナーがいた。それは鳩である。幼い頃から鳩が大好きだったピカソにとって、鳩は生涯の友であり、重要なモチーフでもあった。アトリエには妻さえ入れなかったが、鳩は特別に入れていた。フランソワーズ・ジローとの間に生まれた娘に「パロマ=鳩」と名付けた。パロマ・ピカソは著名なジュエリー・デザイナーとなり、現在はティファニー社のデザイナーとして活躍している。
語録[編集]
「明日描く絵が一番すばらしい」
「ミュージアムをひとつくれ。埋めてやる」
「絵画は、部屋を飾るためにつくられるのではない。画家(私)は古いもの、芸術を駄目にするものに対して絶えず闘争している」
「労働者が仕事をするように、芸術家も仕事をするべきだ」
「誰でも子供のときは芸術家であるが、問題は大人になっても芸術家でいられるかどうかである」
「昔、母は私にこう言った。お前が軍人になれば、将軍となるでしょう。修道士になれば、法王となるでしょう。そして私は画家となり、ピカソとなった」
「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ」
「私は対象を見えるようにではなく、私が見たままに描くのだ」
「スペイン内戦は、スペイン人民と自由に対して、反動勢力が仕掛けた戦争である。私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する。」(「ゲルニカ」制作時の声明より)
脚注[編集]
^ フルネームは#名前を参照
^ 神吉敬三編 『ピカソ全集1』 講談社、1981年。
^ a b c ピカソ展カタログ編集委員会「PABLO PICASSO EXHIBITION-JAPAN 1964」毎日新聞社 1964年
^ 日本郵趣教会浜松支部
^ カサヘマスはピカソらとともにパリに出て、ジュルネーヌという女性に思いを寄せたが失恋した。心配したピカソに連れられて一度スペインに戻るが、その後ひとりでパリに行き、カフェで談笑するジュルネーヌに銃弾を浴びせたのち、自分の右こめかみを撃って自殺した。ジュルネーヌは命を取り留め、長命している。
^ 内戦時にピカソは50代後半であった。兵卒は30歳前後でも老兵と言われる。彼が従軍を望んだとしても、兵卒としては勿論、たとえ尉官クラスの将校待遇にしてもらえたとしても、そもそも実戦に従軍すること自体が体力的にまず不可能であった点は充分な留意が必要である。
^ ピカソの絵画が100億円超で落札、美術品の最高記録更新 ロイター 2010年5月5日
^ 盗難に遭ったピカソらの名作7点、容疑者の母親が「焼却」 AFPBB 2013年7月17日
参考文献[編集]
『親友ピカソ』 ジェーム・サバルテ、美術出版社、1950年。絶版。
『ピカソ礼賛』 神原泰、岩波書店、1975年。絶版。
『ピカソ その生涯と作品』 ローランド・ペンローズ、新潮社、1978年。絶版。
『ピカソ全集』 神吉敬三編、講談社、1981年。絶版。
『ピカソ』 マリ=ロール・ベルナダック (Marie-Laure Bernadac)(著)、ポール・デュ・ブーシェ (Paule du Bouchet)(著)、高階絵里加(翻訳)、創元社「知の再発見」双書、1993年。ISBN 978-4422210810
『ピカソ』 飯田善國著、岩波書店、2000年。ISBN 978-4006020217
『ピカソの「正しい」鑑賞法』 岡部昌幸監修、青春文庫、2000年。ISBN 978-4413091466
『マイ・グランパパ、ピカソ』 マリーナ・ピカソ、小学館、2004年。ISBN 978-4093566315
『ピカソ』 岡村多佳夫著、角川書店、2008年、ISBN 978-4043921010
『ピカソの陶芸』 岡村多佳夫著、パイ・インターナショナル、2014年、ISBN 978-4756245397
外部リンク[編集]

ウィキメディア・コモンズには、パブロ・ピカソに関連するメディアがあります。
Musee National Picasso, Paris(国立ピカソ美術館、フランス、パリ)
Museo Picasso Malaga(ピカソ美術館、スペイン、マラガ)
Museo Picasso(ピカソ美術館、スペイン、バルセロナ)
On-Line Picasso Project(オンライン・ピカソ・プロジェクト)
スペイン政府観光局オフィシャルサイト ピカソ美術館(日本語)
典拠管理
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カテゴリ: パブロ・ピカソスペインの画家キュビズム共産主義者フランス共産党フランス社会主義の人物レーニン平和賞受賞者スペイン内戦の人物マラガ出身の人物1881年生1973年没

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